引退会見でのDeNA・三浦大輔【写真:篠崎有理枝】

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番長にインタビュー、人生の転機と今後のプラン

 今季限りでの現役生活に幕を閉じる横浜DeNAベイスターズ“ハマの番長”こと三浦大輔投手”に話を聞いた。25年の現役生活において支えとなったものとは何か。そして、チームに残していきたいこととは――。引退会見後、数日経った後のインタビューの中で番長がその胸中を語ってくれた。

――番長が引退だなんてまったく実感がわきません!!

「俺も実感わかないよ。こないだの引退会見をみなさんの前でさせてもらった時には『あ、もうやめるんだな』っていうのはちょっとあったけれども、あの会見の後、次の日も、今日もグランドに来ていつも通り練習して、汗かいたりしているから、まだこれからじゃない? 徐々に実感するのかなって。ただ、最後も、打者一人だけとか1イニングだけとかじゃなく普通に先発して普通に勝負するから、ちゃんとやってますよ。っておかいしいな。雨天で最終試合は29日になったけど、今まで通り登板日に合わせて調整していきます。(最終登板も)いつもと変わらないですよ。会見した後だから雰囲気は変わるかもしれないけど、去年の優勝チームのヤクルトとの対戦。いいバッターがいっぱいいるから、どうなるかわからないけど」

――山田選手にもホームランを打たせるわけにはいかないですからね。

「そうか。どうする。歩かすのか? いや、大丈夫。打たれてもゴウ(筒香)がまた打てばいいんだから。マウンドに上がれば一緒だし、感傷に浸っていても勝てないし相手が加減してくれるわけでもなく、必死に抑えるしかないから。ぐっとくるかもしれないけど、しっかり集中して投げ切りたいと思います。とにかく気を遣われて最後投げるっていうのは嫌だから。最後まで真剣勝負。だってもうできないじゃん」

――俺がいなくてもローテーションが守れる先発陣をってずっと言っていましたが…。

「俺がいなくてもクライマックスシリーズいったんだから」

――悔しさは?

「でもそれが、俺のモチベーションにもなったから。それじゃ俺はこのローテーションの中に食い込んでいこう、俺も絶対にチャンスをつかんでやろうって。そういう気持ちで8月までやって、8月まで声がかからない。じゃ上の状態もいい。あ、もう俺がいなくても大丈夫だし、どっかけじめつけなきゃいけない。今年限りだなって。でも俺は真剣勝負でもう1回マウンドに立ちたいって思ったから、9月の頭でも(辞めることを)言わずに投げていた。ファームでも状態が上がってきてたから、もしかしたらこの連戦のどこかで1軍で投げられるかなって。

 9月頭に“次の金曜16日甲子園行くぞ”って言われた時にわかりましたって。じゃそれ終わったら言おうって。それが最後の勝負だって。俺は思ってた。だから家族も呼んだし。結果負けたけどでも勝負できたなって。で、試合が終わってホテルに戻って社長と監督とチームに話をして。試合前に監督にも言えなかったのは申し訳なかったですけど、先に知ってもらってマウンドに送り出してもらうのはなんか違うと思って。そういうのもなんもなくフラットに『あ、三浦は今調子が良いから上で使おう』っていうふうに勝負したかったから。『三浦は今年辞めるからどっかで投げてもらって』っていうのは違うと思ったから。

 監督にも後で、『先に言わずにすみませんでした』って言いました。それでいつ引退を発表しようかってなっていた中で、GMや監督がクライマックス決まったから、もう1回、普通に勝負するかって聞かれた時には、『勝負させてください』って。『1人だけっていうのでもいいぞ』って言われたけど、俺は即答で『できるんであれば(打者1人とかではなく普通に)やります』って」

引き際を自分で決められることの幸せ

――でも名残惜しいですね。

「そりゃずっとやっていたいよ。ただ、やっぱり1軍で勝たないといけないですから。ただ投げるためにマウンドに上がっているわけじゃないから。勝つためにマウンドに上がっているし、今年勝てなかった。もう1回投げるけど、今年勝てなかったから。もう1回チャンスがあるから1個勝って終われればベストだけどね。わかんないよ。こればっかりは」

――さみしいですけど引退試合ができる選手って限られていますよね。

「俺もそれを考えていて、ほとんどの選手が自分から辞めるって言えない。自分で辞められる、引き際を決められるってのは幸せだなって。球団にもう1年やらしてくださいってお願したらもしかしたらやらせてもらえたかもしれないけど、でもそれじゃ“三浦大輔そんなんでいいの?”って思ってしまうから駄目だろうって。そんなところは甘えたらいけない。けじめとして勝てなかったら辞めるってずっと決めてたし」

――剃りこみの入った頭と細眉で奈良から出てきて。ドラフト6位で入団して、何がここまで番長を支えてきたと思いますか?

「野球が好きで、もっとうまくなりたい。1軍に上がりたい。勝ちたい。いい車に乗りたい。年俸を上げたい。いい家を建てたい……。欲の塊かな。プロに入って先輩をみて、『俺もああいう車乗れるようになりたいな。俺もこんな家を建てられるような選手になりたいな』って思ってやってきた。もちろん辛い時もあったし勝てない時もあった。でもそういう時はファンの方が背中を押してくれたり、励ましてくれたりしたからここまで来られたのかなって」

――全部叶いましたね。

「そうね。もう1回優勝したいっていう夢は叶わなかったけど、98年に1回優勝を経験させてもらったから」

――野球が好きでもっとうまくなりたかった?

「小谷コーチとの出会いも大きかったですね。入ったころ怖かったかなぁ。そんなにいろいろ言われることもなく、かといって怒鳴られることもなく。野球のピッチングフォームはもちろんそうだけど、人としてもいろんなことを教えてもらった。社会人として。高校卒業してすぐ、何にも知らずに奈良からでてきたので。野球以外にも勉強させてもらいました。

 寮生活の時は、門限を破って遊びにいったりした時期もあったけどそれは最初だけ。やっぱり1軍はいいなって思った。1年目の秋に1軍に上げてもらった時に“え、1軍ってこんなに!?”って。ホテルの部屋も1人だし、移動はグリーン車。それでお客さんがいっぱいいる中でプレーできる。あのマウンドに上がりたい。俺も投げたいなって思って。それからは、練習するしかないなって。もちろん息抜きはしたけど、1軍を経験してからは初めの頃のように遊びたいと思わなくなった。遊ぶ時は遊ぶ。やる時はやるって決めてやってきました」

三浦大輔という男、「大きな出来事」で変わった人生

――1軍への憧れが番長を支えてきた。

「綺麗に言えばそうですよ。でも1軍に上がれば年俸も上がるし、2軍じゃ給料上がらないっていうのもあったし、野望!?、欲!? 矢沢永吉さんが大好きで『成りあがり』っていう本を読んで“俺もプロ野球界で成り上がりたい”って思ってやってきましたから。それまでは、田舎でなんもないところでちゃらちゃらしていたから」

―――番長にとって横浜とはどんな場所ですか?

「大好きな場所。だってこっちの生活の方が長いもん。もちろん奈良は奈良で地元で故郷ってのはありますけど、18年奈良にいて、25年横浜にいてるから。もうやっぱり住みやすいですもん。街が。緑もあるし。都会と緑と海。本当に田舎の子みたいになってるな(笑)。応援に来てくれるファンの方も温かいしね」

―――番長のことを悪くいう人を聞いたことがない。ほかのチームの選手からも、ファンからも愛される人柄。

「それっていいのかなどうなのかな。ほかのチームのファンからは逆に憎たらしいくらい頑張れればよかったのかなって(笑)」

――人と接する時に心がけていることは?

「特にないかな。好かれたいか嫌われたいかといったら、もちろん別に嫌われたいとは思ってないけれど、普通に接して、普通にしているだけやけども、わからんわ」

――人格者と言われることは?

「そんな人格者じゃないもん(笑)。困るわ。あいつちょっとおかしいぞって言われるくらいの方がいいもん。ただ、高校1年の時の出来事があったから、やってこられたっていうのはすごく感じるかな。あの時、人を裏切り続けていましたからね。16歳になる前。高校1年の秋。(※注 高田商業1年生の時、突如野球部のグラウンドから姿を消し、野球部の練習はおろか学校にも顔を出さなくなった時期があった。そして“野球部を辞めます”と部員の前で言い、監督に真剣に怒られて、仲間にも何度も説得された)

 あれは、俺の人生の中では大きな出来事だったかな。ダメだなって。気づかされたというか勉強したというか。だってあの頃、嘘ばっかついてたもん。嘘ついて、人を裏切って、自分のやりたいこと、欲望のままに動いていたような時期でしたから。俺この世界1人で生きていけると思っていた。大きな勘違いをしていた時期でしたね。ちゃらんぽらんなこと、中途半端なこともしていたから。でもそれで周りの人にすっごい迷惑をかけました。だから、もうそういうことはしちゃいけないなって。深く深く深く反省して。周りの人のお蔭で気づかされました。

 その後もしばらく辛かったですから。周りを裏切っていたから何を言っても信用されず、信用ゼロでしたからね。オオカミ少年じゃないけど。でも自分が蒔いた種だからと思っています。あの経験は大きいかな。その時と同じような適当なことをしたら、自分も嫌な思いをするし、周りも傷つけてしまうかもと思うからかもな」

理想のチームに「なったわけでないけど、なってきている」

――その経験が今の番長を作っている?

「そんな大それたものではないけど、大きな出来事でしたね。今こうやって笑い話にできるけど、当時は本当にもう周りに迷惑をかけていた。もし今自分の息子がそんなことをしたらぶっとばしますもん。間違いなく。もちろんうちの親も怒っていましたけど。来年うちの息子が、俺がそれをしたのと同じ歳になるんだけど、親になってみて、自分の息子がそういうことをしたら大変だよなって。親には多大な迷惑をおかけしていましたね」

――今の若い選手たちに何を伝えたいですか?

「一生懸命やるだけですよ。ずっと現役ができるわけじゃないし。1年ってあっという間だし。グラウンドに立つってことは、それだけの責任をもって立ってほしい。レギュラーを獲って毎日試合に出ていると当たり前のようになってくるけども、当たり前じゃないんだって。責任があるんだって。1人でやっているものじゃないっていうのがね。先発で投げて打たれて今日ダメだーって思って適当に投げてると、じゃ野手はどうしてるの? 野手もみんなも生活がかかってるっていうか、プロとしてやってるんだから、責任を持って一球一球投げてほしいし、一球一球打席に入って守備に就いてって。このグラウンドに立てるようにしてほしいなっていうことくらいですよ」

―――若い選手は落ち着いているなと感じます。

「しっかりとしたコメントを出す選手が増えてきたね。俺、あいつらの年の頃には“そんなこと知らん。そんな丁寧にしゃべられへんぞ”って思っていたけど。でも確かに俺らが若い時も上の方からは言われていたと思うんですよ。それが時代だと思うし。今の時代に合ったものがあると思うし良さがあると思うから。

 ただやっぱりグラウンドに立つ責任っていうのは今も昔も変わらないと思うんでね。そこはしっかりやってもらいたいと思う。みんなしっかりやってるけどね。みんな成長したもん。強くなってきた。勝つこともそうだし、取り組み方もそうだし、それが結果に表れれば自信にもつながっていくと思うし。今年なんてクライマックスに出られるんだから、クライマックスを経験して結果はどうあれ経験したことによってすごい成長できると思うんだよね」

―――番長が思い描いていたチームになってきていますか?

「なってきています。なったわけでないけど、なってきているのは見えるし、球場とファンとグラウンドが一体になって、戦っているなって。だって前はさ(7〜8年前)、横浜対広島戦であんなにお客さん入らなかったもん。それが、今チケットを取るのが大変で、選手でも何枚までしか取れないとか、もうないですとかいうことがあるくらい。誰が想像したか。でも変われるんだってこと。だから俺たちも変われるし、変わってきたなってところ。

 まだ完成していないけど、横浜はいいチームになってきたなって。ちょっとこう他球団に自慢できるような、いいだろって。おまえのとこ大変だなって言われる時代は終わったかなって。他球団の人から同情されるのは悔しいですし、球団だけでなく現場の選手もそうですけど、『強くなってきたな。いけんじゃないの!』と言われる声は増えてきましたから。でしょ!?って。もっともっと強くなって、あの横浜に入りたいなって。あの横浜にいたんですか?って言われたい。そういうチームになってきたなって。これからもまだまだやることはいっぱいあるけど、楽しみですね」

「来年はユニフォームを着ない」―、これからやりたいこと、横浜に残したいこと

―――第二の三浦大輔は出てきますか?

「俺よりみんな球速いもん。みんなすげー球投げてるんだもん(笑)。いやそれは何人かは出てきてって俺が自分で言うのもおこがましいけど、先発でここ数年ないくらいローテーションが回るようになってきた。球団が横浜ナンバー18を位置づけてくれて、今後球団で協議してつけてもらうってのはもちろんだけど、やっぱりファンが一番わかると思う。ふさわしいなと思う選手がでてきたらファンがわかるし、球団にも俺にもその声は入ってくると思うし。みんなで決めればいいんじゃないですか? というか出てきてもらわないと困る」

――これからも横浜を見ていく。

「もちろん見ていくけど、来年はユニフォームは着ないから。1回ユニフォームを脱ごうって決めたから。1年、2年、3年……何年になるかわからないけど。横浜は25年ずっと見てきたからよくわかるんだけど、他球団は、例えばキャンプでどんな練習をしているのか……ニュースでしか見たことないから、どういう雰囲気なのか知りたい。アメリカ、メジャーはどういう指導方法、監督と選手、コーチと選手が接しているのか。メジャーだけではなく、アマチュア球界もじっくり見たいし、また違う角度から勉強して、で機会があれば、タイミングがあればいずれ横浜に戻ってきたいなって。戻りたいっていっても戻れるかわからないけど。それはタイミングもあるしね。あとは、引退したら草野球をいっぱいやろうかなって思っている。知り合いの草野球チームとかに遊びにいきたい。飛び入りで参加したいな」

―――これを残した、というものはありますか。

「引退セレモニーを球団あげて大きな看板をたてて盛り上げてくれたり、街中にポスターを張ってもらったりしてありがたいし、嬉しいなって。俺がプロ入った時に初登板が大洋ホエールズ最終戦で、その試合が遠藤さんの引退試合。次の年が齊藤明雄さん引退試合で、引退セレモニーをグランドレベルで見て、相手チームのファンが帰らなかった。そんな遠藤さんと齋藤さんのセレモニーを見て、俺もこうしてやってもらえる選手になりたいなって。

 それを自分が今度してもらえることになって、それを見た後輩たちが俺もこうやって三浦さんみたいにやってもらえる選手になりたいなって思って頑張れる一つの目標になってくれればいいかなって。もちろん一つの球団にずっといることだけが素晴らしいわけではなくて、他球団に行って渡り歩いてっていうのも素晴らしいと思うし、いろんな生き方があると思うんだよね。それはもう選手個々の気持ちですから。ただこういう生き方もあるよ。いいよって俺は思っているし。そう感じてくれる後輩たちが出てきてまた横浜のためにがんばってくれればいいかなって思います」

白井京子●文 text by Kyoko Shirai