その感動は大丈夫? 言葉の怖さに用心してください「とと姉ちゃん」87回

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連続テレビ小説「とと姉ちゃん」(NHK 総合 月〜土 朝8時〜、BSプレミアム 月〜土 あさ7時30分〜)第15週「常子、花山の過去を知る」第87話 7月13日(水)放送より。 
脚本:西田征史 演出:大原拓


「とと姉ちゃん」をもっと楽しむために、先週から 疑問点は【黒とと】、いいなあと思った点を【白とと】としています。

唐沢劇場だった87回。
15分中、前半8分ほど、唐沢シリアス編。後半は唐沢コミカル編。
まず、前半。なぜ2度とペンを握らないと思ったのか、花山伊左次(唐沢)がついに語り出す。
珈琲好きだった母親は、女手ひとつで花山を育てた。花山も、常子(高畑充希)同様、父がいないことで、常子と花山が惹き合う根拠ができた。さらに、「青鞜」が母親の人生に影響を与えたことも、常子が共感を覚える点に。
花山は「青鞜」によって「言葉には人を救う不思議な力がある」と悟り、出版の世界へ。ついでに、言葉の要らない絵の才能も発揮していく。
ここまで3分ほど。唐沢の語りは飽きさせないが、ふと壁を見ると、「珈琲7円」と書いてある。「スタアの装い」の正価と同じ。珈琲一杯と雑誌一冊が同じ値段かー、なんて考えさせられている間に、花山は言葉を国ために使ったこと、戦争に勝つことだけを考えていたこと、だがそれは間違っていたことに8月15日の敗戦で気づいたことを話す。
言葉の力のもつこわさに気づいた花山は、国による焼夷弾に関する誤った認識の流布を例にして話す。それできれいにペンやハサミなど仕事に関するものを結んで(封印して)しまったわけだ。
8分間、唐沢の重みのある台詞術に心揺さぶられた。【白とと】

話したら帰るという約束でこの話を聞いたにもかかわらず、常子は「今日は帰る」と返す。こういうのを“詭弁”という。「今日は」と断りを入れることで自分の目的を果たそうとする言葉のこわい使い方を自ら実践しているのだ。【黒とと】
さらに常子は「どーしても女の人たちの役に立つ雑誌を・・・」「必死にもがきながら・・・」「灯りをともせるような雑誌をつくりたいんです」などと熱弁を奮う。
危ない。うっかり感動しそうになった。はい、これも言葉のこわさです。お竜や綾などの苦労も出てきたものの、14週までほとんど戦争の辛さは描かれていなかった。86回に至っては、常子の妹たちは水田(伊藤淳史)に助けてもらってもいる。だが、唐沢寿明がすばらしい演技で戦争について語り、それを受けて常子が目をうるうるさせながら真面目な言葉を語ると、たいていの人は、ああ、戦争は辛いのだ、この人たちは大変な目にあって、立派なことを考えている、といとも簡単に思い始める。だが、ちょっと待て。常子は、花山の体験に心動かされたと思うけれど、さも前から自分が戦争で苦しむ女性のことを考えているかのように語るのは釈然としない。ここは、私は何もわかっていなかった、だからこそ花山からもっと学びたいのだと言ってほしかった。常子は無知で無神経でお金のことばかり考えているのでもいい、大事なのは、そんな彼女が何を体験したことによってどう心情や考え方が変化していくか、そこを誰もがナットクできるように誠実に自分なりの工夫をしながら描くのが作家の仕事だ。でもそこをスルーして、言葉でいい感じにまとめあげる才能は悪魔的だ。【グレーとと】

とりあえず、詭弁に屈する花山ではないので、常子は帰るが、財布を忘れていく。これが作戦だったら、ほんとうにすごいが・・・。
花山が財布を開けると、住所だけはっきり映り、中のお金をあまり映さないのが上品。【白とと】

で、唐沢コミカル劇場へ。
85回の雨漏りが伏線となり、修繕に来た大工さんと間違われる花山。
「待っていた? わたしをですか?」怪訝な顔おかしい。
大工さんと呼ばれ顔の向きを素早く変える動きがおかしい。
「道具はどこだ・・・」とやれやれ顔がおかしい。
ちゃぶ台をどかす時は持ち前の几帳面さを出し、「せいの、はい! せいの、はい!」おかしい。
すべてが漫画みたいでホントに楽しめた。【白とと】

花山のジーンズの帽子、バッグ、パンツに、センスの良さが漂う。【白とと】
モチーフとなった人物・花森安治は後に女装をしはじめるのだが、そこにも彼の美意識が生きていた。
花山が花森のように女装するかまだわからないが、女装といえば、同時代、美輪明宏がいる。花森に一度だけ、銀座の資生堂パーラーで会ったことあるという(「薔薇色の日曜日」より)美輪様は、1951年(昭和26年、とと姉の87回の時点から5年後)から銀座のシャンソン喫茶で名を馳せていくのだが、その店の名は「銀巴里」と言った。そこには、五反田(及川光博)のモチーフのひとりである作家・柴田錬三郎も通っていたようで、奇しくも及川は美輪明宏の舞台にも出演している。花山の経営する珈琲屋さんは「巴里」。これはこの時代の文化の花園のような銀巴里へのオマージュだろうか。
(木俣冬)