あの日「笑っていいとも」が取り戻した“日常” 『1989年のテレビっ子』に聞く

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”テレビバラエティの青春時代”を「1989年」とし、芸人やテレビマン達の生き様を描いた『1989年のテレビっ子』

MANZAIブームを起点に、土8戦争、BIG3、お笑い第三世代に至るまで、当事者への取材はせず膨大な資料を元に編み上げた圧巻のテレビ史。一体どのようにして書かれたのか、著者の“テレビっ子ライター”戸部田誠(てれびのスキマ)さんにインタビューしました。
(『1989年のテレビっ子』のレビューはこちら→「バラエティは残酷」全員集合vs.ひょうきん族「土曜8時」は戦場だった『1989年のテレビっ子』


「すごい面白いテレビを見た」本にしたかった


── まず、なんてお呼びしたら……戸部田さん?スキマさん?
スキマ どちらでも大丈夫です。固い雑誌だと「戸部田」が採用されたりしますね。
── では「スキマさん」で(笑)。『1989年のテレビっ子』は、2014年3月の『笑っていいとも!』グランドフィナーレの「伝説の一夜」から始まって、「1989年はテレビバラエティ青春時代だった」と振り返っていくわけですが、そもそも「1989年」というキーワードに着目したきっかけはなんだったんでしょう?
スキマ 僕、年表が大好きで、自分でもざっくりした年表を作って事あるごとに見ているんです。ふとした時に、1989年に『オレたちひょうきん族』が終わると同時に『ガキの使いやあらへんで!』が始まっていることに気がついて。1989年をよく見ていくと、『とんねるずのみなさんのおかげです』の裏で『ザ・ベストテン』が終わったり、いろんな象徴的な番組が終わったり始まったりしていたんですね。
── その発見をもって、『1989年のテレビっ子』に着手されたのはいつごろですか?
スキマ 企画が通ったのが2年くらい前です。もともと速水健朗さんの『1995年』のような新書をイメージして書き始めたんですが、僕の書き方では面白くならなくて。事実を並べるのではなく、物語で書くようにしたんです。そうしたら第2章でもう新書くらいのボリュームになって(笑)
── 収まらないと(笑)
スキマ 編集者に相談して「単行本にしましょう」と。時系列に並べるだけでなく、読み物として面白くなるように、テレビの構成を意識して作っています。最初に盛り上がりを持ってきたり、章ごとにテーマをもたせたり。読後感が「すごい面白いテレビを見た」というようなものにしたかったんです。
── 物語はマンザイブームから始まってますが、そのころスキマさんは……
スキマ マンザイブームが1980年なんで、2歳です。全く記憶にないです(笑)。土曜8時は『加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ』派だったんで、『オレたちひょうきん族』もほとんど観ていないんですよ。書籍や雑誌からエピソードを拾い集めて、初めて知ることもたくさんありました。
── 取材をせずに、文献やテレビ・ラジオの発言から物語を立ち上げていますよね。
スキマ 取り上げる範囲がとても広いし、全員に話を聞くのはもう不可能なので、だったら出ている情報だけで作る距離感がテレビ的かなと。その分、書籍とテレビで同じ内容の話があったら、テレビのほうを優先するようにしています。
── 本は2月の発売だったのに、1月2日放送の『さんまのまんま』まで脚注に入ってますもんね(明石家さんまとビートたけしがツーショットトークで昔を振り返った回)
スキマ いい話だったので入れたかったんです。本当は脚注をいっぱい書きたかったんですよ! サブカル系の本とかで、脚注が下にびっしり入っているのが大好きなんです。この本でもやりたかったんですけど、ページ数がとんでもないことになるので途中で止めました。

土屋さんとリーダーの行動力


── いいシーンがたくさんあって……。謹慎中で石垣島に身を寄せているビートたけしを、島田洋七が励ましに訪れるエピソードとか。B&B解散の場面の後に挿入されているシーンで、励ましているほうがこのあと表舞台から消えてしまう……。
スキマ それは絶対入れたかったエピソードですね。前半部分の核になる場面なので。
── 他に思い入れのあるエピソードはありますか?
スキマ 作り手じゃなく編成としての土屋敏男さんの功績に光を当てられたのはよかったですね。第6章「日テレの逆襲」では主人公に置きました。
── 日テレにとんねるずやダウンタウン、ウッチャンナンチャンを持ってくるために、フジの『ねるとん紅鯨団』『夢で逢えたら』『オールナイトニッポン』の現場に何度も通うんですよね。
スキマ すごい行動力ですよね。電波少年が始まる前から、自分自身でアポ無し突撃をやっていたという。
── ダウンタウン、ウッチャンナンチャンと言えば、「心斎橋筋2丁目劇場」と「ラ・ママ新人コント大会」が同じ年(1986年)に始まっているという発見も驚きました。
スキマ あれは僕もびっくりしました。調べていておおっ! って気づくことが多いですね。ラ・ママを始めた時のリーダー(渡辺正行)はまだ30歳くらいなんですよ。当時は「若手を出すなんて事務所の看板を傷つける」と事務所がライブをやるのを嫌がっていた、というのが衝撃的で。リーダーの東京の存在感の大きさはすごいですね。


── 逆に入れたかったけど漏れてしまったエピソードはありますか?
スキマ BIG3ととんねるずを含めたお笑い第3世代の移り変わりが大きなテーマだったので、所ジョージや爆笑問題、鶴瓶さんも本当は入れたかったんですが……。爆笑問題も1989年に太田光代さんと出会っているんです。あと、ものまね四天王ブームが始まったのも1989年ですね。

『笑っていいとも』が取り戻した“日常”


── 最終章「テレビの嘘と希望」には、スキマさん自身が東日本大震災で被災されたエピソードが書かれています。企画当初からスキマさん自身の物語も含まれていたんでしょうか?
スキマ いや、自分のことを入れるつもりは全くありませんでした。編集者からのアドバイスなんです。視聴者目線のテレビ史なので、やっぱり自分の物語にしたほうがいいだろうと。まえがきと最終章の自分の経験の部分は後から入れました。結果、やっぱりよかったなと思います。
── 当時お住まいだったいわき市から、レイザーラモンRGのあるあるオールナイトを見に行くために上京したところで被災されたという……。
スキマ 具体的にRGのライブと書くつもりはなかったんですけど、編集者が「そのバカバカしさがいい!」と(笑)。上京後に交通網が麻痺していわき市に帰れなくなって、妻方の親戚の家に身を寄せたんですが、全然知らない人の家なのでテレビを見て過ごすしかないんです。でもテレビで流れているのは震災の話だし、計画停電もあったりで、結構気が滅入っていました。『笑っていいとも!』が通常放送を再開したときは、あぁっ……「日常」が帰ってきたって、思いましたね。

「作り手にも演者にも様々な思いがあっただろう。それでも彼らは、『笑っていいとも』のステージに変わらない日常を作り出した。それが虚構であったとしても、テレビは“日常”という希望だった。テレビの、笑いの力を魅せつけられた放送だった」(『1989年のテレビっ子』P.359)

次の目標は「1996年」


── 次回作を書くとしたら、取り上げたい年代はありますか?
スキマ 1996年です。ボキャブラ天国の「ザ・ヒットパレード」が番組として独立した『タモリの超ボキャブラ天国』と、『めちゃめちゃイケてる!』と、『SMAP×SMAP』が始まったのが全て同じ1996年なんです。爆笑問題とナインティナインとSMAPが揃うので、『1989年のテレビっ子』の続編的に1996年を中心に90年代を書いてみたいですね。

インタビュー後編では、「てれびのスキマはなぜ『スキマ』なのか」「1989年のテレビにあって、今のテレビにないもの」をお聞きします。


『1989年のテレビっ子 -たけし、さんま、タモリ、加トケン、紳助、とんねるず、ウンナン、ダウンタウン、その他多くの芸人とテレビマン、そして11歳の僕の青春記』
(井上マサキ)