芥川賞は滝口悠生「死んでいない者」が本命!又吉直樹と羽田圭介の次のスターを予想する

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ライター・編集者の飯田一史さんとSF・文芸評論家の藤田直哉さんの対談。今回は「第154回芥川龍之介賞」の受賞作を予想します。

又吉直樹と羽田圭介の次の芥川賞


藤田 さて、芥川賞の季節がやってきました。前回の受賞は、又吉直樹さんの『火花』と、羽田圭介さんの『スクラップ・アンド・ビルド』で大変話題となりました。さて、その次! というジャーナリスティックな期待が集まっている、かと思います。作家さんには迷惑かもしれませんがw
 さて、それで、全六作の候補作全てについて、ぼくら二人で実際に読んで評して、どれが受賞するのか予測してみようじゃないかというのが、今回です!
 候補作は、石田千「家へ」、上田岳弘「異郷の友人」、加藤秀行「シェア」、滝口悠生「死んでいない者」、松波太郎「ホモサピエンスの瞬間」、本谷有希子「異類婚姻譚」。なかなか面白い候補作ですね。

飯田 僕は滝口悠生さんの作品がもっとも芥川賞らしいだろう、と思いました。

藤田 はい、ぼくも今回の本命は滝口悠生「死んでいない者」だと思います。次点が、松波太郎「ホモサピエンスの瞬間」かな。

飯田 その予想(?)は一致してるなあ……。


藤田 価値観や趣味は違う筈なのに、一致するのは不思議ですねw
 滝口悠生は、前回の芥川賞候補になった『ジミ・ヘンドリクス・エクスペリエンス』で、震災と記憶のテーマを扱いました。今回も、技法としては同一線上で、時間や主体がぐちゃぐちゃになった中を、音楽的文体で突き抜けていく作品。
 葬式を舞台に、「死者」をそれを取り巻く人々のネットワークの中に視点が飛び込んで、様々な主体の、様々な時間の色々な断片が集まって一つの作品の渦と化す。震災後文学の、重要な作品のひとつかと思います。「言葉」がすくいとれず、「時間」の中に消えて行く細部を捉えようとする作品ですね。
 文体が、文法的に正しくなかったりする。そこが、良い。辺見庸さんの震災後の作品のように、ぐちゃぐちゃになった状態から、言葉を立ち上げ直そうとしている感じがする。

飯田 選考委員である島田雅彦さんはよく「芥川賞は保守である」とおっしゃっています。つまり、ある種の価値観を示す「保守」であることに芥川賞の意味がある。そういう観点からすると、今回の滝口作品は保守の器、格に収まる感じがある。もちろん、悪い意味ではなくて。
 本谷、上田、松波作品には保守とは言えないチャラさがあり、石田作品は保守というより地味かな、と……。

藤田 チャラさや地味さの話はあとでします。
 なんか、色々な主体の中に視点が移動し、横断的に描く作風が最近、純文学では増えているんですよ。「ネットワーク」を描いている、とぼくは言っているんですが、「つながり」や「和」を描こうとしている、とも言えなくもない。

飯田 「小説家になろう」系みたいに異世界に転生したりトリップしない代わりにひとりのなかに何体かいるって感じですかね。あるいは、平野啓一郎言うところの「分人」(ごく単純化して言うと「人間いろんな側面、いろんなキャラがバラバラにあって人によって使い分けてますよね」という話)を表現しようとした結果?

藤田 一人の中に複数がいる「分人」的な感じとは違って、ネットワークの中の断片としての個、みたいな感じですね。それを語る主体、観ている主体はなんなのかがわからない。人間の内部に、視座が位置していない。監視カメラとか、インターネットとか、空気それ自体が主役で、それが語っている、それの視点である、と言われたほうがしっくりくる。

ネットワーク化した主体を描く――上田岳弘「異郷の友人」


藤田 上田岳弘さんは、どちらかというとSF的な設定を使って、ドライにネットワーク化した新しい主体を書く作家で、ぼくは評価していたんですが、「異郷の友人」は、明らかに力が落ちている。新興宗教のテレパシーにしちゃったらだめだよ。
『太陽・惑星』
にあった、ドライな新しい主体のビジョンが後退している。


飯田 上田作品は僕も10代、20代のころなら推したかもしれないけど、失礼ながら10年以上前の舞城王太郎作品とやや似た匂い(や背負わされた期待の質)がしまして、これはかつて見た景色だなあと……。

藤田 ネットワークや関係性それ自体が語っているかのような語りの作品が、2015年の作品には、とても多かったです。『文學界』の「新人小説月評」という欄を一年間担当させていただいて、それを感じました。

飯田 それと上田作品でひっかかるのは、まさに視点人物のなかで主体が入れ替わり立ち替わりしながら進んでいく話なんだけれども、そこで現れる主体がユングだとか石原完爾だとか、あるいは言及される出来事も「アラブの春」であったりとか、つまり固有名詞のインパクトに頼っている感じがした。悪い意味で批評的と言いますか。

藤田 ちょっと冷めますよね、図式が見え透いていて。

飯田 震災の扱いもデビュー作「太陽」のほうがクールで、今回のオチは主人公が津波に呑み込まれるシーンなんだけれども、ちょっとひどい。

藤田 あの結末の意味は捉えにくいですね。ぼくも「異郷の友人」は、評価低めです。

飯田 ここまでひどく書いてもかまわないと思えるくらいに、一部の作家のなかではもはや3・11は風化した出来事なんだなとわかった点では、意味のある作品でしたが。

藤田 もう五年経ってますからね……。風化は確実に起きていると思います。ただ、ぼくは、文学は何をどんな風に書いてもいいと考えているので、みんな書き方が大人しいという方が気になります。高橋源一郎さんの『恋する原発』みたいに、原発事故とAV撮影を重ねる、あからさまな不謹慎も可能なのが文学の良さなのと思うのですが。

あまりに地味で、フォーマットすぎる――石田千「家へ」



藤田 さて、石田千さんの「家へ」はいかがでしたか。これも、無理に言えば、親族や地域のネットワークを描いたものと言えなくもない。それ自体に視点があるわけではないけれど。

飯田 さびれていく地方都市で、漁師のじいさんがいる家族に焦点を当てながら、とくに大きなイベントもなく進む話。
 ボブ・ディランの曲をギターつまびきながら弾いて「どんどん変わってくんだ」みたいなことを言う父親が出てくるんだけど、むしろディランという選択の古さを含めて、停滞が印象付けられた。これが20年前に書かれていても30年前に書かれていてもそんなに違和感がない。

藤田 芸術家小説として、割とフォーマットにハマっている感じはしますよね。

飯田 この文体が好きなひと、合うひとにとってはいい作品なのだと思う。こういう作品が好きそうな知り合いの顔も浮かぶ。でも申し訳ないけど、僕はわからなかった。
 中上健次的なサーガが立ち上がりそうもない地方都市の家族という意味では現代的なのかもしれないけど、現実の田舎民はじじばば含めてイオンとか行くしAmazonも楽天も使いまくってるわけだから、この落ち着き具合というか、ギラギラした原色が存在しないかのような地味さが2010年代なかばの地方のリアリティある光景ともあまり思えず……。

藤田 郊外都市のテーマも、多いんですよね…… でも、郊外や地方のリアリティのテーマも、割と使い古されているから、なかなか新味出すのは難しいですよね。この作品は、郊外というよりは、もっとど田舎のリアリティかな。東京にも出てきている。そして海外にも行こうとしている。「故郷」、日本的な情緒や関係性が濃厚な土地との関係を、断ち切るべきか、受け入れるべきか、という葛藤の話と読めば、震災後のぼくらに突きつけられている土地を巡る様々な問いと繋がるのかもしれないけれど、やっぱり図式的な感じがするのが物足りないかな。

わざとらしい「若者のイマ」――加藤秀行「シェア」


藤田 では、逆に、現代風、都会風の作品である加藤秀行「シェア」はどうでしょうか。これがデビューから二作目で、ぼくは割と好きなんですよ。あっけらかんと、なんもない感じがいいw 作劇や文体は、実は古めかしいというか、安心できるものだけれどね。扱っている素材が、わざとらしく「若者のイマ」っぽい。

飯田 ベトナムからの留学生とルームシェアをしているエンジニアの女性が主人公。主人公は自宅の部屋が空いてるときとかに旅行者に貸すCtoCの新しい宿泊サービス/ビジネスであるAirBnBを使って小銭を稼いでいたり、別れた元ダンナはベンチャー企業の社長で、会社を立ち上げて結婚するときにこの元嫁(主人公)に株をあげちゃったことを今さら後悔して買い戻したがっていると。

藤田 むしろ「わざとらしく『若者のイマ』」を書くという批評性を持っている可能性もあるし、何も考えないでただ出てきているだけかもしれないけれど、化ける可能性のある作家だなと思いました。抜けがいいタイプの作家さんで、純文学では珍しい。
 前作のタイトルは「サバイブ」で本作が「シェア」。外資とかトレードとかITとか、シェアハウスとか、なんか「ワカモノ」記号がいっぱい出て来てて、すごくインチキくさい。ネットのライフハック系のブログの感覚が純文学に入ってきた感じ。

飯田 株を売るのか売らないのか、留学生の就職が決まるのか決まらないのか、AirBnBをやっているせいで旅館業法違反で捕まるのか捕まらないのかが何も決まらないまま宙ぶらりんで終わり、というのが純文学っぽい(?)。

藤田 リアリティとしてはどうですか?

飯田 僕が通っていたグロービス界隈ですらもっとエグい話もイケイケな話も両方聞くので全然ヌルくね? というのが正直な感想です。(芥川賞狙いということを考えないのであれば)もっとエンタメに振って長く書いたほうがよかったのでは……。

藤田 その辺りを、ツッコんでいただけるとw

飯田 たとえばこれが文芸誌である「文學界」ではなくて「日経ビジネスオンライン」とか「現代ビジネス」とかに載っていたら「何が言いたいの?」「エンジニアもスタートアップもこんなヌルくない」とかってNewsPicks(経済ニュース版はてなブックマークみたいなサービス)のコメントでまあまあ有名な経済人のお歴々にボコボコにされると思うんですよ。これなら断然、真山仁や山崎豊子の経済小説の方がリアリティも文学性もある。

藤田 厳しいw ところで、現代版の『なんとなく、クリスタル』だ、みたいな評もあるんですが……

飯田 んー???

藤田 ぼくは、「それはないだろう」って思ってるんですがw
 文芸評論家の石原千秋さんが、前作「サバイブ」を「現代版『なんとなく、クリスタル』であることは誰にでもわかる」と評しているんですよ。
 でも、田中康夫『なんとなく、クリスタル』にあった批評性や斬新さが「シェア」「サバイブ」にあるかって言ったら疑問だし、その作品についての江藤淳の評価を巡って、大塚英志や加藤典洋が長編評論を書いてしまうような作品ではないと思いますね。でも、気になる作家さんです。

後編記事に続く