学生の窓口編集部

写真拡大

戦国時代の幕引きであり、江戸時代の始まりともなった「関ヶ原の戦い」。しかしこの運命的な一戦は、たったの6時間程度で終わってしまったのです。戦国時代の始まりと言われている応仁の乱が10年と異常に長かったことに比べても、驚異的な短時間で決着したのです。

なぜこんなに短い時間で片が付いてしまったのでしょうか? それは大名たちの保身と忠義、裏切りが絡み合った結果だったとも言えます。戦いは戦場ではない場所で始まっていたのでした。

■絶対的な権力者の不在

豊臣秀吉は晩年、「五奉行」・「五大老」の制度を作り上げました。これにより、豊臣政権をより強固なものとし、一切の反勢力の派生は阻止できるはずでした。

しかし、この制度が確立してから1か月後、秀吉は死去します。

すると五大老の権力者だった徳川家康は、それまで勝手におこなうことを禁止されていた、各地の大名や家臣への婚姻の斡旋や領地の授与などを、独断でおこなうようになります。しかし秀吉の後継者・秀頼はまだ6歳、家康を戒めることなどできませんでした。そこで五奉行の筆頭、石田三成は怒り、家康を強く糾弾します。他の大名たちも同様でしたが、気持ちとしては微妙なところもありました。

もともと、三成は秀吉にとって一番の側近で、各地の大名へ秀吉の命令を伝え、逆にその大名の状況を報告する役目を担っていました。つまり、彼によってミスを報告され、処罰を受けた人が多くいたのです。しかも、三成は情け容赦なく、大名たちの釈明を聞かず、ありのままの結果を報告していたので、すべては役目とは言え、三成はとんでもなく嫌われていました。

家康が勝手におこなった領地の授与は非難されるべきものですが、もらった大名はありがたく思います。そして非難している三成は嫌われ者です。この時点ですでに、家康派と三成派に分裂していたのでした。

すぐに争いに発展しなかったのは、間を取り持った五大老の前田利家のファインプレイでした。彼には人徳と権力がありました。さらに家康の勝手な行動に反発しており、ほかの大名たちの暴動を抑える役割も果たしていました。このへんが三成との違いなのでしょう。

しかし1599年、前田利家が亡くなると、事態は一気に進みます。ある日、家康は前田家の跡継ぎ利長と、五奉行の浅野長政が結託し、家康の暗殺を計画していたと公表し、この真偽もわからないまま、亡き利家の妻である「まつ」が徳川家へ人質となり、従う姿勢を見せたことで収束します。

こうして前田の権力を手に入れた家康は、着々と天下取りに向かって歩みを進めていったのでした。

■そして関ヶ原へ

そして1600年。家康は、各地の大名家に年賀の挨拶を求めたところ、上杉家だけは断ります。しかも、合戦の準備をしているという噂もありました。釈明しろと言ったところ、上杉家の重臣である直江兼続より、勝手な行動や前田家への仕打ちを揶揄(やゆ)し、文句があるならかかってこい、という内容の返信を受け取ります。俗にいう「直江状」です。

これが関ヶ原の戦いの引き金となりました。

三成は堂々の決戦を望み、五大老の毛利輝元を総大将とし、家康を打つべく軍を率いました。三成は西軍、家康は東軍、勢力としてはやや西軍の方が有利でした。

しかし実際に関ヶ原で戦を初めてみると、東軍に参加するはずだったのに、関所が封鎖されていたため、仕方なく西軍になったやる気ゼロの長宗我部家。進軍しろといっても、弁当を食べているからダメだと突っぱねる宰相・吉川広家(この時点で東軍との繋がり有り)のせいで、何もできない毛利家。西軍を裏切る小早川秀秋、連鎖して裏切った脇坂安治。

こうして早朝開戦した関ヶ原の戦いは、昼過ぎには終わったのでした。

■まとめ

 ・「関ヶ原の戦い」は、たった6時間で終わった

 ・家康が周到な事前準備をしていたため、開戦前から勝敗はほぼ決まっていた

 ・敵方に「裏切り者」を多く潜ませ、弁当中だから戦わない!などグダグダな大名もいた

関ヶ原の戦い事態はとても短いものでしたが、ここに至るまでには多くの思惑がありました。それぞれが優先すべきものを考えた結果、このような幕引きになったのでしょう。

ただ、三成が人格者であれば、別の結果になっていたのかもしれません。

(沼田 有希/ガリレオワークス)