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池澤夏樹=個人編集《日本文学全集》(河出書房新社)の第1期第6回配本は、第20巻『吉田健一』。いわゆるヨシケン、あるいは「健坊」である。

5期にわたって首相を務め「バカヤロー解散」でも知られる白足袋宰相・吉田茂の息子である。ヨーロッパ育ちのバリバリの帰国子女だ。
首相の息子と聞くと小泉孝太郎みたいな坊っちゃんイメージを持ってしまうが、ヨシケンにかんして言うなら、金銭的な援助を受けなかったようで、戦後すぐの貧乏話もファンのあいだでは語り草だ。
ファン、なんてだらしない言いかたをしてしまった。この池澤版日本文学全集のレヴューもこれで6回目で、いままでの配本でも中上健次や漱石、福永武彦、柳田國男など僕の「大好き」な人たちが登場したけれど、この吉田健一(1912-1977)にかんしてだけは、

「ファン」

なんです〜、とでれでれしてしまわないよう、いま必死にこらえている。むかし《ユリイカ》で吉田健一特集をやったとき、寄稿しただけでなく主要著書解題頁の編者を務めさせてもらったのがいい思い出です。

考えを進める動きをそのまま文章に残した結果



吉田健一の業績のなかで量的に大きいのが批評と翻訳、でも随筆も多いし小説家でもある。読んでるとどれも「いま・ここ」を楽しむ精神が鼓舞されて、気分がのびのびしてくる。
収録作はこちら。

批評
『文学の楽しみ』(1967。集英社版『吉田健一著作集』第14巻および新潮社版『吉田健一集成』第2巻所収)
『ヨオロッパの世紀末』(1970。著作集第17巻および集成第2巻所収)
クレランド『ファニー・ヒル』訳者あとがき(1965)
『書架記』(著作集第21巻および集成第3巻所収)より「「ブライズヘッド再訪」」「ディラン・トオマス詩集」
『交友録』(著作集第22巻および集成第3巻所収)より「石川淳」
『ファニー・ヒル』(1748)は初の近代的好色小説と言われ、ヨシケン以外の訳では及川寛平訳、小林彰夫訳、中野好之訳が文庫で読める。池澤夏樹が解説で書いているように、ヨシケン特有の悪文と思考に慣れるにはまずこれを先に読む手もある。
「「ブライズヘッド再訪」」は訳業のひとつであるイヴリン・ウォー『ブライヅヘッドふたたび』について書いたもの。これには小野寺健訳もあるし、これをもとにした英国ドラマについては杉江松恋さんがエキレビ!で書いている。

ヨシケンの文章は読点(「、」)が極端に少なくて一文がうねくねとのたうっている。いわゆる悪文と言っていいと思う。でも、言ってることはちっとも難しくない。
目が滑ったら何度でも戻って読み返せばいい。考えを進める動きをそのまま文章に残した結果、そういうヘンな文章になったのだということが、ゆっくり読むとわかる。こういう粘り腰でありながら余裕のある思考は、日本の文学批評の主流ではないのかもしれない。

ヨシケンは教養崇拝の事大主義を批判した『文学の楽しみ』で、〈洗練されているのと心が捩〔ね〕じくれていて女々しいのを混同してはならな〉いと説く。

はじめて読んだとき30代前半だった僕は、「大人になるといろいろラクだよ」と言われたような気がした。この姿勢は『ヨオロッパの世紀末』での、〈自分を何かの犠牲者などと考えて碌なことが出来るものではない〉という名フレーズにもつながっている。
そうなんだよね。近代日本の「芸術家」イメージは、やさぐれた被害者意識のいじけっぷりにばかり焦点を当ててきた。そのノリにちょっとついていけない僕のようなふつうの人間は、ヨシケンのこういう言葉に勇気づけられる。僕は正気でいていいんだ、とわかる。

随筆
『酒に呑まれた頭』(1955)より「母について」(著作集第2巻および集成第5巻には『三文紳士』の1篇として収録。ちくま文庫版『新編 酒に呑まれた頭』には未収録)
『乞食王子』(1956。著作集第3巻および集成第5巻所収)より「銀座界隈」「田舎もの」「汎水論」「水の音」「宴会」
『舌鼓ところどころ』(著作集第6巻および集成第6巻所収)より「食い倒れの都、大阪」(1957)

『落日抄』(著作集第28巻および集成第5巻所収)より「酒談義」「ロンドン訪問記」(1963)
ヨシケンは旅と飲食についてけっこうな量の随筆を書いている。たぶん小説や批評よりもそっちの読者の方が多い。

シェリイはすべての酒の中で第一位



吉田健一に影響されたわけではなく偶然だけど、僕は大学時代からお酒はシェリーが好きだ。そのころは同好の人が少なくて、ヨシケンの本だけがシェリーの話ができる相手だった。彼は「酒談義」でこう書いている。
シェリーというものは、飲み屋でこれからなにを注文するかを〈時間だけが決めてくれるような不思議に宙ぶらりんな状態〉の、〈ものを考えているとも、いないとも付かない具合になっている際に飲むのに適した酒である〉。
〈何か考えているのか、いないのか解らない状態で細長いグラスをたまに思い出したように持ち上げているならば、そう立て続けに何倍も飲むことにはならない訳で、一杯で過すことが出来る時間の長さという、ある意味では酒というものの一つの基準になることに掛けて、シェリイはすべての酒の中で第一位を占めるものかもしれない〉

……飲ませろ。いますぐ飲ませろ!

食味随筆というのは戦後の高度成長期に一大分野に発展したが、そのなかでただの自慢話や蘊蓄垂れになることを避けることができた男の書き手はそんなに多くない。檀一雄や開高健の弱点はそこに露呈する。
ヨシケンと獅子文六はその例外に属するのだ。

短篇小説と翻訳
『酒宴』(著作集第5巻および集成第8巻所収)より「酒宴」(1955。講談社文芸文庫版『金沢 酒宴』でも読める)
『残光』(著作集第13巻および集成第8巻所収)より「辰三の場合」(1959)
『怪奇な話』(1977。著作集第29巻および集成第8巻所収)より「お化け」
・翻訳(対訳)『シェイクスピア詩集』(平凡社ライブラリー版『シェイクスピア シェイクスピア詩集』および著作集別巻所収)より十四行詩第18、21、23、27、28、35、43、127、129、130、144番
ヨシケンには長篇小説6点、短篇小説集5点があり、ここでは幻想譚「酒宴」「お化け」とメタフィクショナルな「辰三の場合」の計3作が収録されている。文章というのは魔法になるんだな、とほんとの意味で教えてくれるのが、日本では吉田健一と内田百けん(「けん」は門構えに月)なのだ。

近代日本は詩を完全に誤解してきた



ヨシケンの翻訳でよく知られているのは先述のクレランドやウォー、あるいはシャーロット・ブロンテの『ジェイン・エア』みたいな長篇小説だけど、そういうのを収録することはできない。ここではシェイクスピアのソネットが11篇選ばれている。
ヨシケンは文学というものを「詩」と「散文」の双極の相互作用の場としてとらえていて、そして彼はまた、近代日本はこの「詩」というものを完全に誤解してきた、と考えているのだ。

僕は文学青年だったことがない。だから僕のような者には、小林秀雄・中村光夫・江藤淳・ニューアカ……と続く毛並のいい「日本の批評」は、「文学の中の人」だけに向けて書かれたものに思えて縁遠い。
それよりは、ヨシケン(や河上徹太郎)の文章が好きだ。すごい教養持ってる人とバーのカウンターで飲んでる感じがして、気持ちがアップしてくる。
だからこの第20巻は、池澤版日本文学全集のなかでも快さを最高度に追求した巻だと思うのだ。

次回は第7回配本、第22巻『大江健三郎』で会いましょう。
(千野帽子)