「一つの妖怪がジャーナリズム界を徘徊している。『パブリック・ジャーナリズム』という妖怪が」。

 いつの時代から、ジャーナリズムがメディア企業の専管事項になったのだろうか。公共民(パブリック)がニュースを報道してはならないのだろうか。情報通信技術(IT)革命で、インターネットという広大無辺な空間が出現した。世界各地でインターネット空間を利用した、パブリックによる、パブリックのためのパブリックの統治によるジャーナリズムが芽生えている。

市民参加型ジャーナリズムの出現

 19世紀中庸、ジャーナリズムの萌芽を見たある英国人は「腐敗した政府または暴虐な政府に反対する保障の一つとして『(取材、報道、出版という意味で)プレスの自由』をなんとか擁護しなけばならないであろうという時は、既に過ぎ去った、と考えてしかるべきであろう」と喝破した。

 主流派ジャーナリズムへの批判や地域社会の衰退で、1990年代の米国ではジャーナリストとパブリックが協働して問題解決を目指す「パブリック・ジャーナリズム」が出現し、大きな潮流となりつつある。その中で、ジャーナリストが情報仲介者という意味でのメディアから、主体的な運動家としてのアクティヴィストへと転化した。

 また韓国では、政治意識の高いパブリック約3万5000人が「市民記者」となり、オーマイニュースというネット上の市民参画型報道機関で記事を発信、韓国ジャーナリズムの一大勢力となった。盧武鉉現政権の誕生を支えたともいわれる。

『マスコミ』というジャーナリズム界の異質者

 集団過熱報道、記者クラブの閉鎖性、客観報道という名の傍観報道、そしてマスコミ同士の泥仕合。21世紀初頭の日本では、『マスコミ』と呼ばれる、大手メディア企業に生息する一部の人々の厄害が氾濫している。市民社会の担い手であるパブリックから権力の監視機能を信託されてきたジャーナリストの職域が、『マスコミ』によって蹂躙されているのだ。

 天国にいるあの功利主義者から、こんな声が聞こえてきた。「『マスコミ』は権力化し、そしてパブリックと対峙する存在に変容してしまった。パブリックは腐敗した『マスコミ』や暴虐な『マスコミ』からジャーナリストと協働して「プレスの自由」をなんとか擁護しなければならない」。

「プレスの自由はパブリックのもの」

 「すべて人は、意見及び表現の自由に対する権利を有する。この権利は、干渉を受けることなく自己の意見を持つ自由並びにあらゆる手段により、また、国境を越えると否とにかかわりなく、情報及び思想を求め、受け、及び伝える自由を含む」。世界人権宣言第19条は、こう高らかにうたっている。

 雲の上のコスモポリタンはこう強調する。「言論という理性の『公共的使用』は、各自が公共民である限り制限されてはならない」。「プレスの自由」は、プロのジャーナリストに与えられた特権ではない。当然、『マスコミ』の専管事項であろうはずもない。世界人権宣言からも読み取れるように、「プレスの自由」は、パブリックの基本的人権なのだ。

 インターネットの出現やパソコンの普及など1990年代、IT革命があった。価格破壊で、これまでパブリックには手が出せなかった通信手段や情報機器を入手できる時代に突入した。これを機に、パブリックが、ジャーナリズムの客体から主体へと自覚的に脱皮できる道が開けたのだ。

パブリック・ジャーナリズムというレコンキスタ

 いまここに、様々なバックグラウンドを持つパブリックが参加して、自前のニュースや多様な意見・主張を展開するインターネット空間上の「パブリック・ジャーナリズム」という舞台が出現した。その根底には、『マスコミ』に見られる歪曲された啓蒙主義やプラトン的なエリート統治主義の考え方はない。

 パブリック・ジャーナリズムは、自らの「活私開公」を目指す個人としてのパブリックが集い主体となって、「客観的真理」「規範的な正しさ」「主観的な誠実さ」といった理想論的な対話基準のもとに、自由闊達な異質な他者との喜怒哀楽含めた多様なディスカッションによる民主主義と自由主義の実現を目指すジャーナリズムとしたい。

 すでに、『マスコミ』からは、日本のブロガーらアマチュア・メディア表現者らの中では「(議論ができる)準備された市民」は少数派で、ここでいうパブリック・ジャーナリズムについて「その計画は無理ですよ」などと、さげすむ声も聞かれる。

パブリック・ジャーナリスト宣言

 だが、こんな輩に耳を貸す必要も無い。社会学の先駆者はこういった。ジャーナリストは現実の世の中がどんなに愚かであり卑俗であっても、断じて挫けない人間であると。ジャーナリストは、どんな事態に直面しても「デンノッホ(それにもかかわらず!)」と言い切る自信のある人間なのであると。

 プロであるか、アマチュアであるかは問わない。情熱と判断力の2つを駆使しながら、堅い板に力を込めてじわっじわっと穴をくり貫いていく人間だけが、個人の良心に支えられるジャーナリズムへの「ベルーフ(天職)」を持つ。その人間をパブリック・ジャーナリストという。

 そして、パブリック・ジャーナリストは、『マスコミ』に植民地化されたジャーナリズム界を奪還するレコンキスタを展開し、パブリックが自由で、自ら統治するうえで必要な情報を提供することを目指そうではないか。【了】

パブリック・ジャーナリスト 小田光康