2050年「5つの仮説」:そのとき都市は何を必要とするのか?
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未来の巨大都市=エクストリーム・シティは語る
種々のワークショップ、リサーチやアワードを通じて、未来の都市のあり方をモビリティとの関連を中心に考察する「The Audi Urban Future Initiative(アウディ アーバン フューチャー イニシアティヴ)」。彼らが、コロンビア大学大学院建築学部学部長のマーク・ウィグリー率いるプロジェクトチームとの協働で行ったリサーチが、この「5つの仮説」だ。都市の特質が極端なまでに最大化された「巨大都市=エクストリーム・シティ」の姿を通して未来の「都市生活=アーバンライフ」の条件を考察することがこのリサーチの狙いだ。全世界の人口のうち60%の人々が都市に暮らすといわれる現在。その比率は、20年のうちに80%に達するとの予測もある。都市への人口密集が避けられぬ未来であるとしたら、そこでの暮らしをよりよくするための足がかりとして、ぼくらはまず、従来の「都市」に対する考え方、思考回路を変えなくてはならない。そうこの「仮説」は語りかけている。
仮説1:世代横断性 Transgenerational Capacity
「都市は本物の人生を生きられる場所となる」
都市とは、あらゆる世代の人々が集う場所である。都市部では、物理的にもヴァーチャルな面でもインフラが行き届いているため、血縁がものをいう地方にいるよりも、個人が手厚いケアを受けることができる。
ある公衆衛生の専門家によると、他の地域より都市部において、平均寿命がより長くなるのは、主に都市それ自体に理由があるという。良質な生活環境、医療機関や教育機関へのアクセス、利便性の高いモビリティのおかげで、生活をより深く楽しむことができることことなどがその理由だ。テクノロジーの進化によって、将来的に平均寿命は世界各地で延びることが予測されるが、都市部では特に飛躍的な延びをみせることになるだろう。
ひとつの社会にあらゆる世代が住むことでもたらされる社会自体の強度も、急激に増大する。そう遠くない未来、大都市では老齢人口が格段に増加する。2050年までには、都市部における60歳以上の人口は20億人に達すると予測される。
大都市は、この世代横断的な人口分布の恩恵を受けることになる。幼少期→教育→労働→引退という、これまで当然とされてきた人生のモデルは、異なる世代間の相乗効果によって変化をみせ、教育、労働、娯楽の境目は曖昧なものとなる。
現時点でさえ、高齢者の社会参加は当然のものとなっているが、今後、医療技術の進化や、世代間交流が盛んになることによって、全世代においてQOLが向上すると予測される。つまり都市は、定住して本物の人生を生きられる場所となるのだ。
さらに、人は年をとるにつれ、周囲の物理的な支えをより迅速かつ切実に必要とすることになる。老人のみならず子どもも含めた社会的弱者に対する繊細さは、大都市の利点となっていくだろう。事実、WHOをはじめとする保健機関は、今後の人口動態の変化を考えたとき、都市部の環境を豊かにするのが最良の解だとしている。
〈The Audi Urban Future Initiative〉とは何か?
Audiが2010年より開始したこのシンクタンクは、クルマの未来を考える足がかりとして、それがいかなる都市環境のもとで存在しうるのかを考察することに焦点を絞る。モビリティを中心にエネルギー、建築、デザインなど多分野の先端的識者たちとの協働で「未来都市」の条件を探るべくアワード、コンペ、ワークショップ、リサーチなどの活動を行う。
仮説2: 非対称性 Asymmetric Mobility
「新しいコネクション、新しい可能性、新しい効率性」
都市は常に変動を続けてきた。そこでは新しいモビリティが生まれ、それによって新たな自由がもたらされ続ける。現在でさえ、人、モノ、アイデアといったものは、予想のつく線形のパターンに基づいて動くものではなくなっている。都市のなかでは、複雑に錯綜したシステム間を縦横無尽に滑っていくことが可能だ。こうした“移動”の多様性、非対称性は、新しいコネクション、新しい可能性、新しい効率性を生む。
都市はその最初から、人々がモビリティと自由を求めて集まってくる場所だった。“村”の暮らしをあとにして、よりスピーディな“都市”へと移った人が得たのは、物理的速度の向上だけではなかった。刺激や変化と出合う速度もまた上がり、結果、創造力や発明力も増大した。
20世紀の都市が目指したのは、日々の移動を合理化することだった。通勤の際には、最も予測の立てやすい手段を選ぶのが当たり前だった。しかし今世紀、移動はむしろ非対称的なものとなるだろう。そこでは個々人が、日々のルーティンをこなすときでさえ、さまざまな交通手段を横断的に用いる。そうした状況下では、ハブやノードは固定されず、例えば特権的なハブ駅とそうではない駅との差やヒエラルキーは解消され、都市のなかに、脱中心的で固定化されない有機的な多様性がもたらされることとなる。
さらに未来の都市では、交通手段の「私有」「公共」の二者択一から解放されることも重要だ。加えて、オンラインコマース、カーシェアリング、在宅勤務といったものがより進化していくことで、人々と経済が結びつく新しい手段も次々と生み出されていくだろう。ITテクノロジーの進化は、移動に伴う経費を大幅に削減していく。人々は、移動手段の個人所有からも解放される。利便性を失うことなく、いつでもあらゆる手段を選択し、気のおもむくままにひとつの手段から別の手段へと乗り換えていくことが可能となるのだ。
仮説3:複雑性 Complexity
「悪しき複雑性は、連鎖的な破綻を引き起こしてしまう」
都市は、人類が生み出した最も複雑な構造物だ。そこにはそれぞれに異なる役割をもった個人があふれている。そうした個々人は、複雑に重なり合ったシステムに属し、複雑に絡まり合った巨大インフラの集合体やテクノロジーに支えられて生きている。こうした有機的多様性や複雑性は、システムそのものへの絶え間ないフィードバックをもたらし、都市に成長を促す。そのシステムの隅々にはいつも大変革の兆しが眠っており、建築家ルイス・カーンが語った都市の定義に従うならば、都市とは「ひとめぐりしただけで、少年がその後の人生で自分が何をしたいかがみつかる場所」なのだ。
人生のさまざまな段階にある、階級も民族も考え方も異なる人々が集まる都市を、知の集合体とみなすならば、複雑性こそが都市の生命線となる。社会的/文化的な豊かさ、オープンかつ柔軟で即応性の高いテクノロジーといった要素が、都市をより生産的で耐性の高いものにしていく。その一方で硬直した官僚機構や、互換性のない閉鎖的なテクノロジーは“悪しき”複雑性となって、急激な気候変化や、都市内部での抗争・対立、テロリズムなどの脅威に対してむしろ都市を脆弱なものにしてしまう。加えて、こうした悪しき複雑性は、連鎖的な破綻を引き起こしてしまう。福島のメルトダウン、2010年メキシコ湾原油流出事故、10年5月6日フラッシュ・クラッシュといった出来事は、まさにその典型的な例だ。関連し合うシステムの弱点の連鎖が悪循環に陥り、制御不能になってしまったのだ。
人体内で最もエネルギーを消費する器官が脳であるように、複雑な機構の維持には膨大なエネルギーを要する。増大していく複雑性の要求に応えられない都市は崩壊してしまう。けれどももし応えられたなら、都市は巨大な生命力をたたえたより魅惑的な場所となる。そしてその複雑性は、さらに新たな複雑性をも生み出していくこととなる。
仮説4:移動性 Migration
「そして移住は一生に一度のことではなくなっていく」
都市は、常に人々の移動によってかたちづくられてきた。誰かが都市へと移動すると、それにつられるようにして、ほかの人たちもその都市へと移住していく。成長する都市が秘めた可能性や、その濃密さに引かれて、絶え間なく外部から移住者がやってくることで、都市の個性も刻々と変わっていく。つまるところ“移住”とは、単に都市間の人口の移動だけを指すのではなく、都市自体の構造の変化をも意味している。
19〜20世紀という時代を特徴づけるのが、地方から大都市への人口移動/移住だとしたら、21世紀は、都市から都市への移住の割合が増えていくことになるだろう。
事実、地球上における“移動”の総量はすでに増大しつつある。とりわけ移住は、都市の進化と危機、どちらの際にも生じる。人道的、経済的、環境的崩壊などが都市で起きれば、その都市の人口は減少していくし、反対に機会の多い都市には人口が流入して都市はさらに進化する。
2010年の国連の発表によると、世界中で実に2億1,400万の人々が移住のプロセスにあり、それらの人々の大多数は開発途上の国々に現在暮らしている。他方先進国では、EUやIMFといった国境横断的な共同体の設立によってビジネスチャンスや文化交流が増大し、交通インフラの発展によって新しい“国際人”もみられるようになってきた。
今後の数十年間にわたり、世界の大都市には、絶えず移民が到着し続け、絶えず変わり続けることになるだろう。人口移動は現在よりさらに増加し、都市に新しくやってきた者と、以前からそこにいた者との境界は曖昧になっていくだろう。そして移住は一生に一度のことではなくなっていく。
これまでのように一部の人々だけではなく、労働者にとってもエリートにとっても、移住は当たり前の出来事となるだろう。都市間の移動は、都市内での移動と同じくらいに、身近で複雑なものとなっていく。
仮説5:寛容性 Generosity
「才能が集中する都市はサステイナブルな成長を遂げる」
その成立の当初から、都市とは“与える”場所であった。ある都市が成長する最大の理由は、善かれ悪しかれ、そこが寛容な環境であったからだ。都市はそこに住む人々を放っておいてくれる場所でもあるけれど、それ自体を寛容さの表れとみることができるものなのだ。この“寛容さ”は、しばしば見逃されがちな都市の特徴ではあるのだが、大都市ならではの驚くべき効率性や生産性のある部分は、確かにこうした寛容性によって支えられている。
都市とは開放的な場所だ。その定義からして、そこは共生の場所であり、多くの空間や環境は、他者とシェアすべきものとして存在する。
そこで日々を送る人々が交流することで生まれる力が、行政や権力からの圧迫や規制を跳ね返してきたからこそ、都市はこれまで繁栄し、永らえることができたのだ。つまるところ都市が生み出す文化は“交流”、つまり、目に見える境界線を越えて交換されるアイデアや知識が基盤となっているのである。
都市はどんなレイヤーにおいても、必ず開放性/寛容性があるもので、それが人々の助けとなるものでもある。想像しにくいことかもしれないけれど、それこそが都市に成長をもたらすみえざる秘密となっている。与える者、受け取る者双方に利益をもたらす“寛容性”によって都市は前進を続けていくことができる。
経済と政治の中心地としての都市よりも、むしろ才能が集中する都市のほうがよりサステイナブルな成長を遂げるだろう。寛容性をもって迎え入れられた才能は、やがてその才能によって都市に貢献することのできる機会をも受け取るのである。
そうした「交換」は今後の都市にとってますます重要なものになっていくだろう。それは文化的にも社会的にもかけがえのない価値となる。与えることでより成長していく。未来の都市は新しいタイプの寛容性を培うことで、より強靭な都市となっていくのだ。