布陣は流行するものと言われるが、いままさに流行の兆しが見え始めていることは確かだ。3―4―3の話だ。

元バルセロナ在住者で、現在、国内某所で少年サッカーを指導している某も最近「昨日の試合、3―4―3で戦ってみました」という知らせを寄越してきた。

ザッケローニも次の試合で3―4―3をやりそうだという噂を小耳に挟んだが、これも時代のムードを感じさせる話だ。ザック式は未完成品。中盤の並びもバルサの3―4―3とは異なるが、概念は攻撃的サッカーだ。僕的には歓迎すべき布陣だ。

ムーブメントの発端は、昨季のチャンピオンズリーグ対ルビン・カザン戦で、グアルディオラが突如、テストしたことにあると僕は見る。

いまでは当たり前にみられるようになった4―3―3が流行るきっかけも、同様にバルサにあった。05〜06シーズンのチャンピオンズリーグで、バルサが優勝を遂げたことが原因だ。

バルサの偉大さ、影響力の強さを思わずにはいられない。

「バルサの強さについていろいろな人がいろいろなことを言うけれど、私はやっぱり個人の力だと思いますね」とは、前回のメルマガで引用した某大物解説者の台詞だ。個人の力以外の要素を指摘する声に対して、氏は異を唱えたわけだが、個人の力以外の要素を積極的に伝えたがっている僕とは、これは大袈裟に言えば、正反対な考え方になる。

もちろん、そうした側面は確かにある。その他の要素、つまりサッカーゲームの進め方にいくら拘っても、個人の力を越えられないケースが多いことは確かだ。王道を行く考え方であることは事実ながら、その点ばかりを強調すると、他の側面に目は向かなくなる。バルサが普遍的に持つ思想や哲学、美学や文化に迫れなくなる。

誰もが映像を見れば即、理解できる個人の力を強調することより、そうした背景について迫ることの方が、本場の匂いが伝わりにくい日本サッカー界にはよっぽど有益だと思う。

別の解説者は3―4―3を紹介するアナウンサー氏に対してこうも述べていた。

「日本では3―4―3とか数字ばかり強調される傾向がありますが、それにあった選手がいなければできないということです」と。「バルサの強さについていろいろな人がいろいろなことを言うけれど、私はやっぱり個人の力だと思いますね」に共通する視点である。

抱いた感想も前者に対してのものと同じになる。それはそうかもしれないが、いま敢えて言うべきことだろうか。バルサを目の前にして言うべきことだろうか。バルサの背景について、けっして詳しいと思えない日本のファンに、それは解説者として強調すべき点だろうか。

「4―2―3―1」とか「3―4―3」とか、「数字」を強調した本を立て続けに刊行した僕だって、個人の力が重要なことは認めるし、布陣もそれに則した選手がいなければできないことも重々承知している。だが、一方で、例外はいくらでも存在する。

日本のファンに伝えるべきは例外の方ではないか。例外が多いのがサッカー。正解が複数あるのがサッカー。正解がないのがサッカーだ。例外という名のカルチャーギャップを目の当たりにして、さんざんビックリ仰天させられてきた僕自身に課せられた使命は、日本の常識と敢えて違うことを言うことにある。その驚きを伝えることだ。

日本のサッカー界に漂う常識とは異なる常識を伝えることにある。「数字の本」を敢行した、それこそが動機だ。格好良く言えば。

例外を認めれば混乱する。ファンにとってサッカーはますますややこしいものになる。認めない方が楽でいられることは事実。自分の過去を壊す労力を費やさずに済む。
 
「サッカーは布陣でするものではない」も、ある時よく使われた台詞だ。「サッカーは布陣でするものだ」的な意見への反対意見として。しかし最近、それを耳にする機会は少ない。なぜだろうか。例外があることを多くの人が薄々感じ始めているからだ。そう言い切っては辻褄の合わない事例、情報に、ファンが多く出くわすようになっているからだ。