東京に生きる、結婚しない女性のストーリー。今回の主人公は、IT関連会社で働く吉田恵麻(37歳)。

東京の西、国立駅の改札から出たのは、深夜0時だった。秋の夜空はやがて来る冬の寒さを宿しているかのように、かすかに霞がかかっていた。駅前のロータリーには、見慣れた黒のドイツ車が停まっている。元恋人の洋平だ。「みんなのクルマ」とつぶやいて、恵麻は顔を隠してタクシーの列に並んだ。

中学校の同級生だった洋平とは、同窓会で再会し、5年間交際した。別れたのは、2か月前だ。結婚したい恵麻と、独身でいたい洋平。結婚を巡って双方の親も乗り出し、交際が拘泥状態になると同時に、恵麻が多忙になった。その隙をつくかのように、洋平には新しい女性ができた。同じ町に住む、10歳年下の後輩だった。

人の気持ちというのは、目を離してしまうと大きく変わってしまう。消えてしまった愛情は、もうどうやっても戻すことはできない。意思や気持ちをはっきり伝え、妊娠という暴力的な手段を使ってでも、つかみ取っていかないと、捉えるチャンスは二度とない。

終わってみればそう思うが、渦中にいる時は別だ。「嫌われたらどうしよう」「焦っていると思われたらどうしよう」と。口を開こうとするたびに、抱える必要のない劣等感、羞恥心、相手に媚びる気持ちで何も言えなくなり、2人の間の空気だけが重くなっていった。腰から下はぬかるみにつかりながら、くだらない争いを続ける男女……そこから洋平だけを引き上げたのは、若い女の胎に宿った新しい生命だった。

洋平はきっと、恵麻と半同棲していたあのマンションで、その女性と新しい生活を始めているのだろう。妊娠3か月だというその女に「無理するなよ」など、口先だけでいたわりながら。

国立の駅から徒歩20分の所に建てられた、洋館風建築。白壁にレンガ、出窓の枠にはバラのモチーフを使った時代遅れなデザインの家に帰ると、母の幸恵は起きていた。ソファに寝転がり、スマホの画面を見ながら「おかえり」と言った。きっとパズルゲームをしているのだろう。

父親が死んで豹変した母親は、掃除、洗濯、料理さえもほとんど放棄した

ホコリまみれのリビングには、脱ぎ捨てた服、洗濯もの、雑誌、チラシ、空いたペットボトルが散乱している。テーブルの上には飲みかけのココアが残されたティーカップ、ワインが入った茶碗、スナック菓子や菓子パンの空き袋があった。

父が2年前にガンであっけなく死んでから、リビングには緊張感がないゆるみきった雰囲気が、父の代わりに支配するようになった。それまでは、きれい好きで癇癪持ちの父の機嫌をとるかのように、幸恵はリビングを掃除していた。

63歳の幸恵は、髪を染めダイエットに気使い、年齢相応に外見を整えることに気を配っていた。しかし、父が死んでからは、丸かった尻は四角になり、分厚い脂肪が蓄積されていった。

「遅かったわね。夕飯食べたの?豚の角煮と赤飯があるわよ。買ってきたやつだけど」

食事だってそうだ。父が生きている間は、2日間煮込んだビーフシチューや、手間のかかるコブサラダやヴィシソワーズなどを楽しそうに作っていた。「食事はお腹いっぱいになればいいものではないの。ひと工夫して楽しまなくちゃ。でも、大切なの栄養バランスよ」と、幸恵は幼い頃から娘の恵麻に言い聞かせてきた。

そんな幸恵が愛情を込めて作った調理を、何も言わず動物のエサのように食べる父。有機野菜を取り寄せ、栄養バランスとやらを考え、減塩した料理を30年間食べ続けたにも関わらず、父はあっけなくガンになり、ガンの発見から半年も経たずにみるみる弱って死んでいった。

葬儀では遺体に縋り付き、慟哭する幸恵に誰もが涙した。参列者は200人おり、そのほとんどが母の友人や知人だった。定年退職した父の参列者は20人。親族と大学の同級生のみで、会社の人は1人もいなかった。そこで恵麻は初めて父の本当の姿を知った。

幼い頃の父は仕事に没頭し、朝は暗いうちからパリッとした背広を着て、整髪料で髪を整えて颯爽と出て行った。背筋を伸ばして歩く父の背中を、2階の出窓から見るのが恵麻は好きだった。

恵麻が「お父さんみたいにカッコいい仕事したい」と言うと「なれるぞ、恵麻は俺に似て、リーダー気質だからな」と目を細めた。

財閥系の化学資材会社に勤め、世界中を回り辣腕を振るった父のもとに、深夜や休日も部下や取引先が押しかけてきた。そんな彼らを幸恵は笑顔で迎え、クラッカーを使ったカナッペ、スモークサーモン、サラミ、生ハム、メロンなどでもてなしていた。

風向きが変わったのは、子会社に出向になった時だ。家に来るお中元やお歳暮の数が激減し、それに反比例するかのように父が家にいる時間が増えた。定年までの10年間を過ごす父に、母は「あなたはすごいわ」と励まし続けていた。

父と同じ名門大学を主席で卒業し、新進気鋭のIT会社に勤めた当時の恵麻は、父の気持ちがわかった。「もうやめたら」と幸恵に言うと、「男はプライドを傷つけられるのが一番嫌いなの。家族くらい励まして、褒めて、持ち上げてあげないと」と反論した。仕事への誇りや自尊心などを、とうに失って老け込んでいく父。それを「励ます」という生きがいを見つけ、若返っていく母がどんどん追い込んでいった。

少しでもぼんやりしていると、あっという間に取り残される。37歳で結婚への梯子を外された恵麻は、後悔の日々を送っていた。

かつて、一度だけ恋愛関係になった男性も、別の女性との間に子どもを授かったことを知るが……〜その2〜に続きます。