【秘話】昭和のスター三船敏郎 熊本で迎えた終戦
巨匠・黒澤明の映画に数多く出演し、戦後の国際的スターになった俳優の三船敏郎さん。三船さんが熊本にあった旧陸軍・隈庄飛行場で終戦を迎えたことはあまり知られていません。10月、旧隈庄飛行場の地元では、戦時中の三船さんについて語り継ぐイベントが開かれます。
熊本市南区城南町にある熊本市火の君文化センター。この一角には旧陸軍・隈庄飛行場があったことを記す記念碑が建っています。ここで10月、戦後の国際的スター三船敏郎が隈庄飛行場で終戦を迎えた史実を紹介するイベントが計画されています。地元でも戦時中ここに三船がいたことや陸軍飛行場があったことを知る人は多くありません。
隈庄飛行場は1941年(昭和16年)、陸軍飛行学校の分教所として開所。約1000人が巣立ちました。戦況が悪化すると陸軍飛行隊の部隊が配置され、さらに終戦間際には特攻隊の中継基地にもなりました。
■髙谷和生さん
「(特攻隊を)編成するのは基本は関東で編成することが多いですので編成をして特攻機を受領しますと。あとは順次。南に向かって(移動する)。熊本の陸軍の基地は中継基地となるんですね」
三船敏郎は中国で生まれ、満州で兵役につきました。父が写真業だったことから経験を買われて、航空写真を扱う偵察機の偵察員となり、その後は滋賀県の部隊で5年間、写真工手として若い兵士の教育係となります。しかし終戦の4か月前に隈庄飛行場の気象班に転属しました。
■髙谷和生さん
「写真工手からすると、全然畑違いの仕事だったということになります」
軍隊時代の三船は初年兵を庇って上官に反抗していたという元部下の証言が残っています。
■証言・五十嵐敬之輔さん
「三船さんは上等兵で、班の内部情報に詳しい。そこで、班長(軍曹)ににらまれないように、いろいろとその要領を教えてくれました。また初年兵をかばう余り、班長と大ゲンカをしたこともあります。そんなところが上官の意にそわなかったのか、進級から見放され、万年上等兵で終戦を迎えました」
そしてこの元部下の五十嵐敬之輔さんは、戦後、写真館を経営しましたが、軍隊時代の三船が演劇を披露している写真を残していたことが分かりました。基地周辺の住民らを招いた部隊祭での出し物ではないかと見られています。
■髙谷和生さん
「戦後、三船が俳優としてデビューした後も何枚か三船と一緒に写った写真がありますので、その後はまさに旧交を温めた。そしてその時の写真を大事に取っておられたということが、今回の写真発見の契機となったということになろうかと思います」
そして隈庄飛行場でも、終戦2か月前の6月24日に地域住民を招いて部隊祭が開かれ「三船がタクトを振ってにわか仕立ての楽団を指揮していた」との証言が残されています。三船は敗戦の後、隈庄を離れ、カメラマン助手の職を求めて撮影所を訪ねるも東宝ニューフェースの試験に合格し映画スターの道を歩み始めました。
これは終戦後にアメリカ軍が隈庄飛行場を撮影したカラー写真です。フィルム資料研究家の衣川太一さんが収集しました。接収された日本の戦闘機が焼き払われる様子も残されています。
今回「隈庄飛行場と戦争中の三船」について語り継ぐイベントを企画したのは、くまもと南部広域病院です。病院は隈庄飛行場の跡地の一角に建てられました。病院裏手には飛行場時代から残る「心」の字をかたどった心字池が残されています。この池のほとりで特攻隊員が出撃前の水杯を交わしたと伝えられています。
■小野友道理事長
「1000人のパイロットが巣立っていったと。同じものを見たんでしょうね。山は同じだし」
職員駐車場に残る古いコンクリートは飛行機が待機していたエプロンの跡だといいます。
■小野友道理事長
「最後はこの病院の土地の飛行場から沖縄に向かって飛び立った青年が何人もいると聞いていたたまれなくなりました。皆さんにこの飛び立った青年たちを紹介し弔ってあげたいそういう思いで計画しました」
「隈庄飛行場と三船敏郎」についての史実を知る文化事業は10月5日午後1時から熊本市南区城南町の熊本市火の君文化センターで開かれます。入場は無料で髙谷和生さんの講演のほか三船敏郎主演の映画「無法松の一生」が上映されます。
