/本を読め、話を聞け、と言ってもムダ。むしろ、文章や話の全体は、読まれない、聞かれない、という前提でないと、現代のコミュニケーションはもはやできない。/

 この記事を読んでいる人は、よくわからないかもしれない。だが、回りを見てみろ。すでに文章を読んでいる人は少数派だ。電子書籍がどうこう以前に、本なんか読んでいる人は絶滅危惧種。電車で雑誌、それどころかマンガですら読んでいる人はいない。

 みんな、スマホ。あれだって文字だ、というかもしれない。だが、彼らの読んでいるのが、文章か。段落も無い、章立ても無い、三行広告みたいなものは、文章とは言うまい。絵文字や記号の一種としての文字で、起承転結だの、序論・本論・結論だのという文章構成は無い。言わば、サルの、ちょっと複雑な叫び声みたいなもの。

 文章だけではない。話、というものも無くなった。ボケとツッコミのような、瞬発的な言葉のやりとりはあっても、黙って人の話を最初から最後まで聞くことには、もう耐えられない。講演会や会議などでも、トイレだの、電話だの、途中で席を立つやつが続出。さもなければ、途中で寝ている。話というものが、最初から最後までもらさず聞くことで成り立っている、という前提が崩れている。前半だけ聞いて、もしくは、後半から現れて、それだけでああだこうだと論評する。もっとも、その論評もだれも聞いていないのだが。

 べつにバカにしているわけではない。文章を読まない、話を聞かない人々の方が圧倒的多数で、もはやそういうものなのだと認めないと、コミュニケーションが成り立たない。気のきいた決めゼリフ、キャッチコピーだけで、全体を語り尽くすのでないと、話が伝わらない。そのうえ、それさえも聞いていない、誤解していることを前提にフェールセーフを何重にも張っておかないと、まさに、そんな話は聞いてない、と逆ギレする。

 自分は本を読む、話を聞く、としても、だからといって、もはや人にその良識は期待できない。本を読みなさい、話を聞きなさい、と言ってみたところで、そのこと自体を聞いちゃいない。しかし、考えてみれば、本を読むとか、話を聞くとかの習慣は、近代の義務教育や徴兵制と表裏一体で、優秀な兵隊を作るために、むしろ国家が国民に強制してできたもの。義務教育が崩れ、徴兵制も無ければ、べつに本を読まなくても、話を聞かなくても、人間が生きていくのに困りもしない、という方が、じつは真実だろう。

 もちろん江戸時代にもすでに寺子屋で学び、楽しみとして本や話を嗜むということもあったのだが、それよりもおもしろいものがいくらでも溢れている現代、最初から最後まで黙って従っていないとならないような面倒な娯楽より、好きなところで始められて、好きなところで止められる、それどころか、おもしろいところだけつまみ食いできる娯楽の方が好まれるのは当然。

 まことに平和で贅沢な時代になったものだ。本を読まないと、話を聞かないと、バカになるぞ、などと言ってみたところで、まさに馬耳東風。彼らには彼らの楽しみがあるのだし、古い世代の、古い趣味を押しつけられても迷惑、というのも、わからないではない。むしろ、それがわからない世代が、いまだに、古いスタイルの長々しい文章や講話を一方的に垂れ流し、それを、きちんと全部、読まない、聞かない、と言って、キレている方が始末に悪い。

 こういう1600字程度の文章ですら、もはやラテン語や漢文なみの死語。とはいえ、近代になっても、あえて大衆の目くらましにラテン語や漢文で本音を語り合った人々もいた。まあ、こうした文章も、そういう意味では、意味があるのかもしれない。

by Univ.-Prof.Dr. Teruaki Georges Sumioka 純丘曜彰教授博士

(大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン。専門は哲学、メディア文化論。)