人類、笑いをいまだ解明できず。

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哲学では概念という言葉がしばしば重要な役割を担う。英語で言うと「コンセプト」で、「作品のコンセプトは何ですか」とインタビュアーがアーティストなどによく聞いたりするので何となくニュアンス的には知っているだろう。「物事の概括的な意味内容」と辞書を引くとある。つまり、花という言葉に花の定義(本質)が定められることによってすべての実在の花に花という言葉が当てはまる。だが、世界はあまりに広く多様である。中には定義にピタリと当てはまらない花も存在するかも知れない。この不一致を笑い理論に関連付けたのが19世紀ドイツ哲学者のショーペンハウアー。

「笑いが生じるのはいつでも、ある概念と、なんらかの点でこの概念を通じて考えられていた実在の客観との間に、突然に不一致が知覚されるためにほかならず、笑いそのものがまさにこの不一致の表現なのである」と氏は断じる。
前編の「期待と現実の突然の不一致」が笑いを引き起こすというカントの理論と構造的に似ている。カントのときと同様、ショーペンハウアーの言う具体例を見よう。
パリのある劇場の観客が、かつてラ・マルセイエーズの演奏を要求したが、それが演奏されなかったので、叫喚と狂乱が生じた。そこでついに制服を着た一警部が舞台にあらわれ、劇場ではプログラムにあるのとは別のことがなされることは許されないと言明した。すると一声があがった。
「でもあなたもまたプログラム中にありますか」と。

もうひとつ別の例。
だれかが、自分はひとりで散歩するのが好きだと言ったとき、あるオーストリア人は彼に言った。
「あなたはひとりで散歩するのが好きだ。私もそうだ。だから私たちは一緒に散歩することができる」と。
ふたつの例を挙げたのには意味がある。実は氏いわく可笑しさには2種類あり、実在的なものから概念に移行するときは「機知」、その逆が「とんちんかん」と定義しているからだ。つまり、最初の例が「機知」、二番目は「とんちんかん」。見ての通り、舞台にあらわれた一警部(実在的なもの)の次に正しい劇場のプログラム(概念)が現れているのに対し、二番目はひとりで散歩するのが好きな私たちがそれをふたりで一緒に楽しめる(概念)、私たちは一緒に散歩することができる(実在的なもの)と順序が逆なのである。概念と実在の不一致の順番を逆にすると笑いの種類がガラリと変わる、実践的なおもしろい理論である。

笑いといえばまさに「笑い(Le rire)」という本を書き残した哲学者を忘れてはならない。彼はフランスの哲学者ベルクソン。彼の笑い論はかなり有名だしその分量も多いので、ここで詳述しないが一応簡単にエッセンスを挙げておく。
「笑うべきことは、注意深いしなやかさと生きた伸縮性があって欲しいそのところに、一種の機械的なこわばりがある点だ」
これも抽象化の度合いが高い定義なのでよく分からないだろう。よって例を紹介する。
「往来を走っていた男がよろめいて倒れる。すると通りがかりの人びとが笑う。(中略)笑いを催させるものは彼の態度の急激な変化ではなくして、変化の中にある不本意的なものであり、不器用である。(中略)しなやかさに欠けていたせいか、うっかりしていたせいか、それとも体が強情を張っていたせいか、こわばり、もしくは惰力のせいで」

「人間の体の態度、身振り、そして運動は、単なる機械を思わせる程度に正比例して笑いを誘うものである」とも言う。
そう言われてみると昔、何かのコントでロボットのようなぎこちない動きや機械的な声を真似た芸人を見てゲラゲラ笑う観衆を見た記憶がある。ロボットでなくても、不慣れでぎこちない動作で商品を間違えたり落っことしたりとヘマばかりするコンビニの店員のコントで笑いが巻き起こることなどは今もよく見られる。

最後に、同じくフランス哲学者のバタイユのかなり風変わりな笑い論を見よう。「非―知(Le non-savoir)」という不思議なタイトルの本の中に収められたもので、
「笑わせるものとは単純に、知りえぬものなのかもしれない。(中略)われわれが笑うのは、ただ情報や検討が不十分なためにわれわれが知るに到らないといった性質のもつ何らかの理由のためではなく、知らないものが笑いを惹き起こすからこそ笑うのです」と言う。
ベルクソンの例に当てはめると、通行人が倒れることは誰もあらかじめ知り得なかったことだ。私見だが、この理論ならもしや赤ん坊が笑う理由を説明できるかも知れない。これまで挙げてきた哲学者が笑いの理由として使った期待の不一致、概念、実在、機械的、そうしたものを一切知らないのに、赤ん坊は笑うのだから。

笑いはいまだ未知の領域。そもそもアリストテレスの指摘した「人だけが笑う動物」なのはなぜかも分からない。ここはひとまずニーチェがぼそりと述べた言葉で末尾を飾るとしよう。
「人間のみが、笑いを考案せざるを得ないほどに深く苦しむのである」
(羽石竜示)

引用文献
■ ショーペンハウアー著「意志と表象としての世界(正編)」西尾幹二訳 中央公論社
■ ショーペンハウアー全集5「意志と表象としての世界(続編1)」塩屋竹男、岩波哲男訳 白水社
■ ベルクソン著「笑い」林達夫訳 岩波書店
■ バタイユ著「非-知」西谷修訳 平凡社
■ ニーチェ全集12「権力への意志 上」原佑訳 筑摩書房