山口晃『ヘンな日本美術史』祥伝社
気鋭の画家が日本の各時代の名画を、独自の視点でとらえなおした一冊。その内容は、とあるカルチャースクールでの講義がもとに加筆修正したもの。カバーには、著者のおなじみのタッチで、絵筆をとる絵師たちの姿が描かれている。

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10年あまり前、東京に住んでいたぼくはわりと現代美術に関心があって、美術館だけでなくギャラリーにもちょこちょこ足を運んでいた。その当時、ミヅマアートギャラリーは青山にあり(その後、中目黒、さらに現在の市ヶ谷に移転)、会田誠や山口晃などといったアーティストたちの新作展がよく開催されていた。会田誠はそのころから美術界の新星、異才として脚光を集めていたが、山口晃はまだブレイク前だったはずで、それがやがて、百貨店のポスターやらテレビCMやらでその作品が使われ、あれよあれよという間に世間的に知られるようになっていった。昔からのファンとしては、新人だった頃から注目していたお笑い芸人やアイドルがブレイクするのがうれしいのと同じように、ちょっと誇らしく思ったりする。

その頃行った山口晃の個展で、いまでも記憶に強く残っている作品がある。それは中世の「似絵」の代表作として教科書でもおなじみの「伝源頼朝像」(京都・神護寺蔵)を模写した作品だ。「頼朝像図版写し」と題したこの作品は、2種類の図版からそれぞれ描き写した2点で1セットの絵なのだが、同じ絵を模写したにもかかわらず色合いが異なる。個展では絵と一緒に、もととなった図版も展示されており、それらを見るとたしかに模写されたとおり色合いが違う。おそらく製版の違いか何かでこのような差が生じたのだろう、だとすればなかなかコンセプチュアルな作品だな……と、そのときぼくは理解した。が、どうも事情はもっと複雑らしい。

山口の新刊『ヘンな日本美術史』によれば、彼は子供のときからこの「伝源頼朝像」を何度も美術全集で眺めていたのだが、念願かなって実物を目にしたときにはあまりにも図版と違っていてショックを受けたという。その原因はまずそのサイズにあった。

《初めて頼朝像を見た時は(中略)妙に大きすぎないかと思ったのです。「もう少し小さくていいだろう。でかすぎて間が抜けているぞ」と云うのが正直な感想で、さらには青ざめて艶がなくて、「絹本なのにがさがさで何と痩せた絵なんだろう」と、とにかくがっかりしました。
 そもそも、この頼朝像は保存状態が悪かったため、昭和五十四年に修理が施されています。その修復の結果かどうかは、私は修復前を見ていないので分かりませんが、顔がやけに白く、ややもするとペラペラとした印象を受けます》

こうした経験から山口は2つの頼朝像を模写する作品を描いたのだった。2つの絵の色合いの違いは、図版の印刷の違いという以前に、そもそももとの絵の修復前と修復後の違いだと考えるのが妥当だろう。山口によれば《この修復と云うのがなかなか微妙な問題》なのだという。オリジナルを尊重するという考えに立てば、描かれたのちに加えられた補彩などを取り除き、もとの色合いに戻すのが正しいといえる。だが、本当にそればかりが尊重されていいものなのか。

古びたものを古びた状態で愛でるという考えがあったっていいのだし(古びた楽茶碗をホワイトニングなどしてピカピカにしようとは誰も考えないように)、だいたいオリジナルを再現すると一口にいっても、再現する人の解釈などの違いによりできあがる絵は異なってくる。《だとすれば、絵を見るのに何もオリジナルだけにこだわる必要はないのではないか。保存も大事ですが、それよりもむしろ、当時の源頼朝像が持っていた感動というものを再現する方が理想的ではないかと考えるのです》と、山口は書く。

絵画作品を、その描かれた時代の人々が抱いた感動を再現する方向で鑑賞する。本書では、「伝源頼朝像」にかぎらず、とりあげられた作品すべてが同様の姿勢で語られている。似たようなスタイルの美術史としては、作家の橋本治の『ひらがな日本美術史』シリーズが思い出される。たしかにあれも、専門外の人間ならではの従来の常識にとらわれない見方で、古代から現代までの日本の美術史をとらえてみせた意欲作だった。

だが、山口による日本美術のとらえ方は橋本以上に過激かもしれない。たとえば『ひらがな日本美術史』には、「鳥獣戯画」のような絵巻物について、アニメの源流であるといった見方が出てきたはずだが(そう主張する論者は、橋本だけでなく映画監督の高畑勲など近年少なくないが)、山口はこれについて《現代から遡る視点で昔のものの持つ意味をあれこれと言うのは、むしろ好ましくありません》ときっぱり否定している。

《そうではなくて、その絵が描かれた時代を起点にして、なるべくこっち向きの視点を獲得する。「こっち向き」と云うのは、要するに、その時代からどうなるか分からない未来を見据えた視線を一生懸命想像する方が、あるべき態度かと思います。
 なぜなら、遡る態度と云うのは、家系図を反対から見るように、何であれ、それを必然にしてしまうからです。家系図と云うのは下の時代から辿ってみると、そこには運命しか書かれていないように読めますが、私たち自身の将来を見通す事ができないように、当時から見れば、偶然の山積物の結果が表わされている訳です》

ぼくらは、えてして歴史をいま自分たちのいる位置からとらえがちだ。しかしここにいたるまでには、何度もの選択の積み重ねがあった。もしあのとき、べつの道を選んでいたのなら、現在はまた違ったようにあったかもしれない。美術史についてもそう考えることが必要だと山口はいうのだ。それを証明するように、この『ヘンな日本美術史』では、時代時代にあったさまざまな“可能性”が語られる。とりわけそれは、幕末から明治にかけて活躍した絵師たちをとりあげたくだりにとくにはっきり表れている。

明治以降、日本の美術界は西洋絵画の技法を取り入れていく。それは何も油絵(洋画)ばかりではなく、従来の日本画もそうだった。というか、そもそもいまでいう日本画や日本美術は、西洋美術に追いつけ追い越せとばかりに、多分に対外的な理由から生み出された概念である。そのため、岩絵具など昔ながらの画材を使いつつも、バルール(遠近)や透視図法といった西洋画の表現が積極的に導入された。しかしそのなかでかなりの無理も生じてしまう。ここでは詳細は省くが、ようするにそれまでの「型」を重視した描き方ではちゃんと成り立っていた画空間が、西洋画の写実表現を導入することで破綻してしまったのだ。

そのなかにあって、従来の日本画の技法を踏まえつつ、画家が表現の拡充のため自発的に西洋画の技法を取り入れ、効果的な画面構成をものにした例もあった。本書ではたとえば「最後の浮世絵師」と呼ばれた月岡芳年がとりあげられ、《内発性の高い近代化を自作に為した人として》高く評価されている。油絵の世界でも、川村清雄のように日本画的な画面構成を取り入れることで、西洋画とも日本画ともつかない独特の作品を生み出す画家も現れた。

だが、彼らの業績は継承されているとはいいがたい。「内発性の高い近代化」よりも「外発性の高い近代化」を目指す人たちのほうが圧倒的に主流だったがため、彼らは歴史のなかに埋もれてしまったのだ。山口は本書において、前者の画家たちから、日本美術がたどったかもしれない“べつの未来”を見出しているようにも読める。

ところで、勘違いされている人も結構いるかもしれないが、山口晃は日本画出身ではなく、もともとは東京藝大で油絵を学んだ人である(彼の作品の多くも、岩絵具ではなく、水彩やアクリル絵の具といった画材で描かれている)。本書には自身の学生時代の経験が、ちょこちょこ出てくるのだが、そこからは西洋画の写実表現にずっと違和感を抱いていたことがうかがえる。そんな山口の目に、日本美術史は“可能性”の宝庫と映ったのではないか。彼の得意とする鳥瞰図では雲が画面の各要素をつなぐため効果的に使われているが、これも「洛中洛外図」などを踏襲したものだったりする。

ここ数年、日本美術はブームともいうべき状況で、東京国立博物館などで名品が出される展覧会が行なわれるたびに大勢の人が詰めかけている。ケースのなかでうやうやしく飾られた作品を見ると、どうしてもぼくらは現代人の視線でそれらを見てしまう。しかしそういう先入観なしに、つくられた当時の人々の感動を想像しながら作品と向き合えば、より日本美術を楽しめるはずだ。本書にはそのためのヒントが詰まっている。(近藤正高)