日本シリーズに77試合も出場した王貞治、ワールドシリーズに75試合も出場したヨギ・べラ、ポストシーズンに158試合も出場したデレク・ジーターなどに比べると、イチローのポストシーズンの記録は貧弱だ。
日米での記録。

ichiro-Postseason


95年は阪神大震災のあった年。「がんばろう神戸」の象徴的存在として、オリックスを優勝に導き、打率、打点、盗塁の三冠を獲得したイチロー。ヤクルトとの日本シリーズ、当初2試合は1番を打ったが以後は3番。
ヤクルトの野村監督はイチローの足を徹底的に封じ込んだ。イチローは5四死球を選び、本塁打も打ったがチームは1勝4敗で敗れ去った。

96年は巨人との日本シリーズ。全試合3番に座り、第一戦では決勝の本塁打、第2戦では2安打1盗塁するなど活躍し、4勝1敗での勝利に貢献した。
イチローは97年以後も4年間首位打者を獲得し続けたが、日本シリーズに進出することはできなかった。

米に渡った2001年、イチローは驚異の活躍で首位打者、新人王、MVPに輝くが、ポストシーズンでも大活躍した。クリーブランド・インディアンスとの地区シリーズではいずれも1番に座り、第1試合4打数3安打(盗塁死1)、第2試合3打数1安打(盗塁1)、第3試合4打数2安打、第4試合5打数3安打、第5試合4打数3安打と驚異的な打撃を見せつけて3勝2敗の勝利に貢献した。しかし、リーグチャンピオンシリーズでは、ニューヨーク・ヤンキース相手に5試合とも1番で2盗塁したものの18打数4安打と抑え込まれ、チームは1勝4敗で敗れ去った。

今年は11年ぶりのポストシーズンだった。地区シリーズではボルチモア・オリオールズ相手に23打数5安打。打順はジーターの後ろの2番。犠飛も記録するなど、これまでにない役どころで責任を果たした。
そしてデトロイト・タイガースとのリーグチャンピオンシリーズでは、負傷したジーターの代わりに1,2、4戦は1番を打ち、チーム一の17打数6安打を記録した。特に難攻不落のジャスティン・バーランダーからいい当たりの1本を含む2安打を打ったのは特筆に値しよう。



しかし、今年もワールドシリーズ進出はならなかった。こういう運命の選手だともいえるが、見果てぬワールドシリーズの舞台に立つために、イチローはまだアメリカで頑張るのではないか。