「秀吉vs信雄・家康」へ 織田信雄はなぜ“名目上の主君”から秀吉
YouTubeチャンネル「なるほど!歴史ミステリー」が、「【秀吉の天下取りに新たな敵】織田信雄はなぜ秀吉と決裂した?『名目上の主君』が家康と軍事同盟へ 豊臣兄弟歴史解説34」と題した動画を公開した。歴史研究家の市橋章男氏とアシスタントの浜崎友里氏が、秀吉による大坂城築城の狙いや、織田信雄と徳川家康が軍事同盟を結ぶに至った背景を詳しく解説している。
市橋氏はまず、秀吉が大坂城を築いた理由について、「信長の後継者としての権威を示すため」に安土城をしのぐ壮大な城を築こうとしたと解説。築城の総奉行を務めた黒田孝高が、秀吉に象徴的な城の建設を進言した可能性にも言及した。さらに「中井家本丸図」などをもとに、豊臣時代の大坂城は現在の大坂城とは天守の位置も構造も異なり、天守は現存する姫路城天守とほぼ同じ規模だったと説明。秀吉が築いた巨大城郭の実像に迫っている。
一方、秀吉が天下取りへの歩みを進める中で、大きな問題となっていくのが織田信雄と徳川家康の存在だった。信雄は織田家の家督を継ぐ立場となり、秀吉はその補佐役という形を取っていた。しかし実際には秀吉が政治の実権を握っており、信雄が名目上の主君にすぎないことは周囲にも広く認識されていたという。市橋氏は、秀吉が信雄を主君として立てることで、自らの天下取りへの野望を覆い隠す「カモフラージュ」の意味もあったのではないかと解説する。
両者の対立が決定的となるのが、天正12年の三井寺での会見だった。秀吉から安土へ出るよう求められた信雄は、自らの身に危険が及ぶことを警戒。双方が互いへの疑念をぶつけ合い、会見は決裂する。信雄は急いで伊勢長島城へ戻り、秀吉との戦いに備えることになった。
そして信雄のもとへ、浜松城の家康から酒井重忠が使者として派遣される。秀吉との決裂は避けられないとして、信雄と家康はついに軍事同盟を締結。動画では、信雄が清須会議後の早い段階から家康との関係を築いていたことにも触れ、二人の連携が突然生まれたものではなかったことを紹介している。
信長亡き後、急速に権力を拡大した秀吉。その前に、織田家の当主・信雄と東海に巨大な勢力を築いた家康が立ちはだかる。やがて両陣営は激突し、歴史は「小牧・長久手の戦い」へと動き出していく。
市橋氏はまず、秀吉が大坂城を築いた理由について、「信長の後継者としての権威を示すため」に安土城をしのぐ壮大な城を築こうとしたと解説。築城の総奉行を務めた黒田孝高が、秀吉に象徴的な城の建設を進言した可能性にも言及した。さらに「中井家本丸図」などをもとに、豊臣時代の大坂城は現在の大坂城とは天守の位置も構造も異なり、天守は現存する姫路城天守とほぼ同じ規模だったと説明。秀吉が築いた巨大城郭の実像に迫っている。
一方、秀吉が天下取りへの歩みを進める中で、大きな問題となっていくのが織田信雄と徳川家康の存在だった。信雄は織田家の家督を継ぐ立場となり、秀吉はその補佐役という形を取っていた。しかし実際には秀吉が政治の実権を握っており、信雄が名目上の主君にすぎないことは周囲にも広く認識されていたという。市橋氏は、秀吉が信雄を主君として立てることで、自らの天下取りへの野望を覆い隠す「カモフラージュ」の意味もあったのではないかと解説する。
両者の対立が決定的となるのが、天正12年の三井寺での会見だった。秀吉から安土へ出るよう求められた信雄は、自らの身に危険が及ぶことを警戒。双方が互いへの疑念をぶつけ合い、会見は決裂する。信雄は急いで伊勢長島城へ戻り、秀吉との戦いに備えることになった。
そして信雄のもとへ、浜松城の家康から酒井重忠が使者として派遣される。秀吉との決裂は避けられないとして、信雄と家康はついに軍事同盟を締結。動画では、信雄が清須会議後の早い段階から家康との関係を築いていたことにも触れ、二人の連携が突然生まれたものではなかったことを紹介している。
信長亡き後、急速に権力を拡大した秀吉。その前に、織田家の当主・信雄と東海に巨大な勢力を築いた家康が立ちはだかる。やがて両陣営は激突し、歴史は「小牧・長久手の戦い」へと動き出していく。
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