《女性皇族「受け継がれる人生と覚悟」》激動の時代を駆け抜けた香淳皇后 昭和天皇の公務に同行し日本赤十字社の活動や結核予防に尽力、現在の女性皇族につながる姿
7月24日、長年議論されてきた改正皇室典範が公布された。これにより、女性皇族は結婚後も皇室にとどまれるようになり、旧11宮家の15才以上の男系男子を対象に、養子として皇室に迎えることが容認される。
現在、雅子さまを中心に、皇室には11人の女性皇族がいる。女性皇族はどのような道を歩み、何を受け継がれてきたのか。皇室制度が大きな変化を迎えるなかで注目される、プリンセスたちの足跡を振り返る。【全4回の第1回】
歴代皇后で最長の62年間、激動の時代を駆け抜けた香淳皇后
激動の昭和期を駆け抜けたのが、昭和天皇の妃だった香淳皇后だ。
1903年、当時、皇室の一員だった久邇宮(くにのみや)家の長女・良子(ながこ)として誕生。14才にして昭和天皇の妃になることが内定すると学習院女学部(当時)を中途退学。「お花御殿」と称された学問所が設置され、修身、フランス語、歴史など多岐にわたるお妃教育を約5年間受けた後、1924年にご成婚となった。
成城大学教授の森暢平さんが当時の様子を解説する。
「上流華族からお妃を迎えることが一般的だった時代に、初の宮家出身の皇太子妃ということで、華麗なる経歴に国民は熱狂しました。結婚前に久邇宮家が香淳皇后を連れて"お披露目"の西日本旅行をしたときの様子を撮影したフィルム上映会には、各地で数千人が集まったほど。まさに"良子ブーム"の到来でした」
ご成婚の2年後、大正天皇が崩御し、わずか23才にして皇后となり、2男5女を出産した。
皇室研究者で静岡福祉大学名誉教授の小田部雄次さんは、昭和天皇一家の育児の理想と現実を語る。
「昭和天皇と香淳皇后は子供と同居して自分たちの手で養育することを望みましたが、それまで天皇家の子供は他家で育てる慣習でした。結局側近らが許さず、自分たちの目で成長を見守ることは叶いませんでした」
一夫一妻のファミリーをつくり、自ら子育てしようとした香淳皇后の願いは、のちの美智子さまに引き継がれてゆく。
戦中、香淳皇后は各宮家の妃らを皇后の名代として全国に派遣し、病院や療養所を慰問させた。
「男性は戦地で戦い、女性は銃後を守るのが当時の習わし。男性ができない仕事を皇后が率先して行い、戦火で苦しむ女性や傷痍兵、疎開児童に寄り添ってケアすることで当時の女性たちのロールモデルとなりました」(小田部さん)
敗戦後、「現人神(あらひとがみ)」だった天皇は、焼け野原となった日本で施行された新憲法で「日本国の象徴」となった。そうしたなかで、香淳皇后は昭和天皇とともに復興とご公務に勤しまれた。
「昭和天皇のご公務に同行し、日本赤十字社の活動や結核予防に尽力された姿は、現在の女性皇族につながります。公の場で発言なさることはほとんどありませんでしたが、国民に寄り添おうとなされた昭和天皇を支え続けるお姿は、"微笑みの皇后"と慕われました」(森さん)
「国母」として激動の時代を駆け抜けた香淳皇后は2000年に崩御した。皇后としての62年間は、歴代皇后で最長となる。
宮家の礎を作ったのが三笠宮妃百合子さま
香淳皇后と同じく昭和の時代を生き抜き、天皇家を支える宮家の礎を作ったのが三笠宮妃百合子さまだ。皇室と縁が深かった旧華族の高木家出身で、1941年に昭和天皇の弟宮の三笠宮崇仁親王と18才で結婚された。
「住まいが空襲で全焼し、防空壕での生活を余儀なくされたこともあったそうです。軍人だった崇仁親王は家を空けることが多く、百合子さまが三笠宮家の要となって奮闘されました」(小田部さん・以下同)
戦後、オリエント学研究者となった崇仁親王を支えながら3男2女を育て、約60年間にわたって母子愛育会総裁や日本赤十字社名誉副総裁などを歴任。2024年に皇室最高齢の101才で逝去した。
(第2回に続く)
※女性セブン2026年9月10日号
