ダウンタウンのマネージャー、吉本興業会長を経て校長先生へ!大洋氏が見つけた「最後の居場所」

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居場所がなかったのはオジサンだった

まだ吉本興業の会長の任にあった2023年に上梓した『居場所。』(サンマーク出版)の冒頭で、大粼洋氏(73)は<居場所を見つけられない人や、孤独を抱えた人の助けになれば良い>と書いている。

同書には、まだ日の目を見ていなかったダウンタウンの“居場所づくり”に奔走し、“オーソドックスな道から外れた昭和の芸人たちの居場所づくり”に努めた彼の人生が描かれており、それこそがエリートサラリーマンではなかった彼自身の“居場所”であった……と結んでいる。

「孤独に悩む子供や若者たちに“悩まなくていいんだよ”と伝えたくてあの本を出したんです。ところが、出版後にいただいたメールやお手紙100通のうち、90通以上が50代後半から60代のオジサンからだったんです(笑)。僕も含めて、オジサンって居場所がなかったんだな……という気づきがあった。

物心がついてから死ぬまで、人は自分の身の置きどころや生まれてきた意味、自分の仕事は本当にこれで良かったのかなどと悩み、居場所探しを続けるんだなと思いました。本を書くなかでの気づきもありましたし、出版後に届いたいろんな人たちの声からも気づきがありました。あの本を出して良かった」

吉本興業の会長職を退き、催事検討会議の共同座長として携わった大阪・関西万博も終わった。そんななか、広島銀行に招かれて講演した。終了後の親睦会で名刺交換したなかの一人から「東京の事務所に伺うので、お会いしたいです」とメールが届いた。

幸和学園という学校法人の理事長で、40歳手前。幼稚園などを5園と、広島と岡山から生徒を募集している通信制の高校を運営。2027年4月1日からは対象を世界に広げた通信制の高校にチャレンジしようとしており、「その学校の校長をしてもらえませんか?」と口説かれた。

「去年の11月のことでした。『僕、教職免許を持っていないですし、ムリムリ』って断ったのですが、『校長先生は教職がなくても構わないんです』と言う。『へぇ、そうなんや。でも、僕は仕事を抱えてるから広島に行けるのは月に2〜3回くらいやし、やっぱりムリかな』って話したら『大阪にも東京にもキャンパスを作るんで、大丈夫です』って。

僕は吉本時代からリュック背負って地方回りをしているので『どうしようかな……』って悩んでいたら、『小学校の教室の半分くらいのスペースがあれば学習スペースを作ることができます。通信高校の生徒たちが家を出て自主勉強をしたり、わからないところを大人に聞いたりする場所です。学習センターを全国各地に作りたいのです』って理事長は言うんですよ」

重ねて「山の学校、海の学校、川の学校、シャッター通り商店街の学校、床屋さんの跡地なんかを学習センターにするとかもアリなん?」と聞くと「そういうことがしたいのです!」と返ってきた。「アジアにも行きたいんやけど……」と続けると「実はすでにタイにある経営が大変だという幼稚園を使わせてもらっています」と言う。

「じゃあ、将来的にタイにも学校を作ったり、キャンパスを作ったりすんの?」「そのつもりなんです!」「アジアも地方も全部行けんの?」「もちろんです!」というやり取りを経て、校長就任が決まった。

「漫才師のマネージャーだった人間が校長先生になるっていうのが分不相応な気がしてモヤモヤッとしていたのですが……中学もロクに出ていなかったり、居場所が見つけられへんかった子らを集めて漫才を覚えてもらって、何とか食べていけるようお世話してきたマネージャーとしての人生と、通信制高校の校長としてこれから出会う居場所のない子のマネージャーをすることが、意外につながっているように思えたんです」

令和のいま、高校生の10人に1人が通信制の高校に通っているという。それが今後、9人に1人、8人に1人、7人に1人、もしかすると6人に1人になるかもしれない。そんな話を聞きながら浮かんだのが母の顔だった。

「トウモロコシと僕」で単位

大粼氏の母は大阪・西成の岸里(きしのさと)で幼稚園の先生をしていた。「いつか、幼稚園の園長先生をしたい!」という夢を叶えるべく、亡き母は通信教育で勉強に励んでいた。

「夜中の11時、12時にゴソゴソと起き出して、ミシン台を使って勉強してたんです。『お袋も通信で勉強してたんやから、通信高校の校長は僕の流れの中ではあるのかな……』と。ムリくり引っ付けたところはありますけど、まんざら関係なくもないなぁ……って。

よくよく聞くと、いまの通信制の高校って大学と同じ単位制で、3年間で74単位取ればいいんですって。例えばダンスの勉強をしたい人は昼間にダンスをやって、好きな時間に通信で勉強する。いろんなアプローチで通信教育を選ぶ人たちがいるんです。月曜日は朝8時半から国語の授業があって……と決まった時間割があるのではなく、好きな時間に好きな科目を選んで好きな場所で受ける。

学習センターでもいいし、キャンパスで学んでもいい。自宅のパソコンに向き合って勉強してもいい。そういう時代になったんだなと。わがままとか、勝手気ままにとかではなく、“もっと自由に生きたいんだ”といまの子供たちは思っている。通信制の学校はいまの時代の空気を吸っているのだな、と」

74単位のうち、文科省指定の単位が48。それ以外の26単位は校長が独自に認めていいのだと大粼氏は言う。

「面白いでしょ。例えば“トウモロコシを植えます。夏に収穫します。それを畑でもいで、むしゃむしゃと食べて、『トウモロコシと僕』というテーマでレポートを書きなさい”というのも、校長が認めれば単位になるんですって。

僕は自分の足で稼いで、ペンとノートを持って、人に会いに行く……そんなことをしてもらいたいなと思っています。壁新聞というのが昔ありました。みんなが記者、ライターになって半径500m〜1kmの中の誰かに会いに行く。

肉屋のおっちゃんはなぜいつもコロッケをマケてくれるのかを聞く。掃除をしてくれるおばちゃんとしゃべったことがないから話してみたい。そんなんでいいんです。自分たちで取材して壁新聞を作ることで5W1Hの基本もわかる。自己紹介のネタにもなる。

“僕はこういう者で、こういうことをお話ししたいのです”というのはコミュニケーションの基本。記事をネットに上げれば世界中の人に見てもらえる。それってなかなか素晴らしいことやと、自分の手を使ってモノを作り、記事を書いたりすることで子供たちに気づきを与えたいんです。

何かあればすぐにAIで聞く、という動きは加速度的に進んでいきます。それも学ばなくてはならないと思います。だからこそ、スマホを触らない時間や、AIに聞かずにまず自分で考えるということを身につけておかないと“自分ってなんだろう”という気づきが得られない。その気づきが居場所につながるのです」

居場所を見つけるための学校、その校長であり子供たちのマネージャーとなることを大粼氏は望んでいるのだ。

「高校に行きたかったけど行けなかった、行ったけど中退したという大人たちも生徒として募集したら面白い。そこの需要ってあるんじゃないかな。“大人生徒”は先生もやってくれたらエエんやないかな。学歴は中卒でも、みんな人生経験は豊富ですから。

こないだ京都のオジサンに連れられて祇園で食事をしていたら、そこにいた舞妓ちゃんが『通信教育の学校をやるって聞きました。私も行きたい!』って言うんです。中学を卒業してすぐ舞妓の世界に入ったから高校に興味があるんですよ。

僕が音楽の先生を頼もうと思っている方も高校に行っていなくて、『先生よりも生徒になりたい』って(笑)。そんな人が1人でも2人でもいてくれたら面白い学校になるんちゃうんかな。

まだ正式契約にはいたっていないんですけど、実は京都のお寺を学習センターにすべく話をしていて。それこそ寺子屋ですね。KBS京都の会長さんに『KBS京都に空いてるスペースないですかね?』って聞いたら『やりたい、やりたい!』って言うんです。放送局の中にある学習センターでラジオの放送システムとかを勉強して番組を作って放送する。面白いですよね」

大金持ちになるより楽しい

前述のように、件(くだん)の理事長は岡山と広島から生徒を集めて通信制の高校を去年、開校した。名前がぶっ飛んでいて「シンギュラリティ高校」。呉市にある廃校となった小学校を校舎としているのだという。

「地域の高齢化が進んで、お祭りもできなくなっていたところに高校ができて、生徒たちがテントを50基くらい張って、チラシ配りなどあれこれやって、夏祭りを開催したんだそうです。そしたら店の手伝いや後片付けに地域の方たちが入ってくれて。街が子供を育てる……じゃないですけど、先生以外の大人もいろいろ教えてくれる……みたいなことになってくれればいいなと思うのです。

校名の『雨ニモマケズ』は、奇麗ごとになってしまいますけど、心の中に雨が降っている子たちが、雨にも負けず、仲間や大人とチームになって傘をさすっていうイメージです」

校長先生は最後の仕事であり、自分自身の最後の居場所づくり。ふとそう思うことがあると大粼氏は言う。

「73ともなると、いつ死んでもおかしくない。“大粼さん、若い!”とか言ってもらえても、“昨日まで元気やったのに……”とか“来週、ご飯の約束してたのに……”なんてのは、よくある話。なので、元気なウチは頑張る。いつ死んでも構わない覚悟……はないんですけど(笑)、頼まれたり、頼られたのが嬉しくて。

AIがさらに進化すれば貧富の格差も大きくなるでしょう。いまでも、東京とかでは20代や30代で100億円持ってる人がようけおるじゃないですか。『自分ら、すごいな』とか言いながら一緒に飯食っては、こっちが支払いをして『なんで?』って思うんですけど(笑)」

大粼氏には京都で『ハンケイ500m』というフリーペーパーを出している知り合いがいる。京都にはバス停が800超あり、それぞれのバス停の半径500mの事柄を記事にしているという。そこで読んだギターの修理店の記事がいまも彼の心に残っている。

「その方は小学生の頃からギターが大好きで、ギターを直すのも好きやった。中学を出て大学に入ってからもずっとギターを触って、直して……ってやっていた。いま、50過ぎですが、世界中からギター修理の注文が来るんですって。大金持ちにはなられへんかもしれへんけど、自分の好きなことを見つけて、それを続けていたら、なんとかご飯は食べられる。

AIを使いこなして大金持ちになるのももちろんいいんですけど、それができない多くの子供たちを“何とかなるで、心配せんでエエよ”と励ましてあげたいんです。意外とこっちのほうが楽しかったりするんちゃうんかな……と思ったりもしてるんですけどね」

大粼氏の話を聞きながら、亡き母のエピソードが特に気になった。取材場所となった彼の個人事務所の名前が「mother ha.ha」なのだ。

「男って、みんなマザコンでしょう? 誰かが『母親が死んだら、自分の身体の血の半分くらいが抜けたような気がする』って言っていましたが、たしかに親父が死んでも『死んだな』って思うくらいですが、母親が死ぬって……男の子には衝撃があるんちゃうかな。それで会社の名前に『mother』を入れて、ダジャレみたいやけど笑いの『ハハハ』を付けたんです(笑)。

大阪の知り合いのパチンコ屋さんがやっているゴルフ場に行くんですけど、そこが偶然、お袋が生まれた実家があったところやったんです。大阪に戻ったときは必ず、西成のお好み焼き屋さんと銭湯とうどん屋さんに行くんですけど、そこってお袋が幼稚園で仕事を終えた後にピアノを教えに来ていたエリアなんです。

梅田とかめったに行かへんのです。死ぬんが近なってから、お袋の影を踏んでるような気もして。面白いな、お袋が呼んでんちゃうかなって(笑)」

母が抱いていた夢、吉本での仕事に著書。すべてはつながっている――最後の居場所を見つけた大粼氏は校長として、どんな気づきを得るのか。大好きなmotherのもとに還るのは大仕事を終えた後のことだ。

取材・文:納戸 剛