テリーの遺影を手に、83歳でもリングに立った「お兄さん」のドリー(2024年8月、西村修とタッグ)

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 野茂英雄が珍しくカウボーイハット姿を披露したことがある。ロサンゼルス・ドジャース時代の1997年4月24日(現地時間)のこと。贈ったのは“テキサスの英雄”、ドリー・ファンクJrであった。直前にマリーンズ戦でメジャー500奪三振を達成していた野茂は、ドリーと2ショットに収まり、取材陣に嬉しそうに語った。

【貴重写真で見る】ザ・ファンクス往時の姿…馬場のドロップキックを受ける名場面から、プロレス史に残る試合まで

「プロレス、好きなんです。テレビ観戦ばかりですけど(笑)。デストロイヤーさんが試合を観に来てくれた時も、一緒に写真を撮ってもらったんですよ」

 当時の野茂はメジャー3年目。まだまだ“NOMO旋風”を巻き起こしていたが、生来の寡黙さが災いし、現地紙に〈400万ドルの契約料で、英語のレッスンが出来たはず〉と書かれるほどだった(※1)。その野茂が自ら話し、カウボーイハットを被っておどけたことが、プロレス界のレジェンドに会えた喜びを物語っていた。ドリー夫人がフリーのスポーツライターだったから実現した顔合わせだったが、その後も2人は何度も会い、野茂がヘッドロックをかける姿も披露している。

テリーの遺影を手に、83歳でもリングに立った「お兄さん」のドリー(2024年8月、西村修とタッグ)

 そのドリー・ファンクJrの訃報が入った。世界王者として、そして弟・テリーとのタッグ、“ザ・ファンクス”として、日本マットに残したものは余りにも大きい。その偉大さを、秘話とともに振り返りたい(文中敬称略。日付はすべて現地時間)。

パワーに頼らない理詰めのテクニック

 ドリー・ファンクJrは1941年生まれ。父親のドリー・ファンク・シニアもレスラーであった。広大なテキサス州はアマリロに牧場と居を構え、父の英才教育のもと、1963年にデビューすると、6年後には当時の世界最高峰・NWA世界ヘビー級王座を奪取する。

 先代の“荒法師”ジン・キニスキーや、同王座に6度も就いた“鉄人”ルー・テーズのように、暴れん坊でもなければ頑強なタイプでもなく、顔はどう見ても良家のお坊ちゃま風で、体もどちらかというとスマートな部類に入った。ところが、パワーに頼らない理詰めのテクニックと、投げ技でも当て身技でもない、逆関節技のスピニング・トーホールドをフィニッシュに同王座を4年3ヵ月に渡って保持。このドリーの長期政権により、近代プロレスの扉が開いて行ったとは、よく言われるところである。

 1969年、まさにそのNWA世界王者期に日本プロレスに初来日。やはり線の細さを指摘する報道が目立ったが、アントニオ猪木とジャイアント馬場という2大エースを相手に、12月2日、3日と連続で防衛戦に挑み、どちらも60分時間切れの引き分け。日本のファンに世界レベルの強豪ぶりを印象付けた。その証拠に(?)、当時、連載中だった人気劇画「タイガーマスク」では、このドリーがタイガーの最後の対戦相手となっている(※2連戦の予定で、初戦はドリーが反則負けも、次戦の直前、タイガーこと伊達直人が交通事故死)。

 翌年には弟のテリーも初来日し、“ザ・ファンクス”を結成。ジャイアント馬場率いる全日本プロレスの外国人エースとして人気も定着する。ところで、ファンクスと言えば有名なのが入場曲の「スピニング・トーホールド」。これはもともと日本のロックバンド「クリエイション」の竹田和夫がファンクスへの個人的な思い入れから作曲したものだった。

 同曲を収録したアルバムの発売は1977年3月。当コラムのミル・マスカラスの回で述べたが(2026年2月24日配信)、この時期、ちょうどその入場曲「スカイ・ハイ」が世間的にビッグ・ヒットしていた。この流れに乗じる形で、ファンが、「ファンクスの技名をタイトルにした、こんな曲ありますよ」と、全日本プロレスに投書し、正式に入場曲に選ばれたのだった。日本での当時の人気ぶりがうかがわれよう。

 そして、人気を決定づけたのがこの年末、77年12月15日に行われたファンクスvsアブドーラ・ザ・ブッチャー、ザ・シークだった(蔵前国技館)。ブッチャーに右腕をフォークでメッタ刺しにされた弟・テリーを場外に逃がし、ドリーが孤軍奮闘も蹂躙される。そこに包帯による応急処置をしたテリーが助けに入って来る展開は、今観ても胸を熱くさせる。そして反則勝ちのあと、「スピニング・トーホールド」が流れて大団円を迎える……余談ながら、今ではデフォルトとなっている、試合後に勝ったレスラーの入場テーマ曲をかける演出は、この時が最初だった。また、同試合は、全日本プロレスにおける最初のタッグのリーグ戦「世界オープンタッグ選手権」の最終戦でもあり、こちらが至高の名勝負になったことで、翌年からは年末に「世界最強タッグリーグ戦」が定着する。同大会は全日本プロレスで、現在も続いている。

 以降も、極めて高い人気を誇ったファンクスだが、ドリー個人の活躍も特筆すべきものがある。1981年4月、力道山、馬場の代名詞だったタイトル「インターナショナルヘビー級選手権」を復活させた際、その初代(通算では10代目)の王者に輝いたのはドリーだったし、同年10月に行われた同王座をかけてのブルーザー・ブロディとの死闘は語り草となっている。全日本プロレスに上がった長州力とも激突したが、弟のテリーは自分の攻めに固執する長州を毛嫌いしていた反面、ドリーは後年のインタビューで、鷹揚としていた。

〈決して嫌いなスタイルじゃない。プロレスにはさまざまなスタイルがあり、私はそれを取り込みながら自分のスタイルを作って来たから、長州のスタイルも否定しない〉(「アサヒ芸能」2016年11月17日号)

 それは、自らの実力への自信が言わせた言葉ではなかったか。因みに、スーパーストロングマシンが全日本のリングに上がっていた際、嬉しかったことの一つが、「ファン時代から一番好きだったドリー・ファンクJrのスピニング・トーホールドを受けられたこと」だったそうである。「3周目に入られると決まりそうだったので、蹴っちゃいましたけど(笑)」とは本人の弁である。

ドリーのベストバウト

 では、そのドリーの、日本におけるベストバウトは何なのか? ドリー自身が選んだわけではないが、あるレスラーの回想がある。

〈今、改めて自分の中でベストバウトはどの試合だったか、目を瞑って振り返ってみると、真っ先に頭に浮かんで来る試合がある〉(「週刊大衆」2021年1月4日)

 発言者はアントニオ猪木。猪木が自選のベストバウトの筆頭に、ドリー戦を挙げたのである。しかも掲載されたコーナー名は「炎の闘魂プロレス30番勝負」で、主旨にのっとり、連載1回目がドリー戦だったが、1週では物足りないのか、ここから計3週にわたり、ドリー戦の回顧が続いていた。

 試合がおこなわれたのは、前出のように1969年12月2日(大阪府立体育会館)。60分3本勝負のNWA世界戦だったが、挑戦者の猪木は、試合前から手負いだった。前日の試合でボディプレスを放った際、勢いがつきすぎ、左手の中指を骨折、薬指を脱臼していた。がっちりとテーピングをし、痛み止めを打ってリングに登場、実はリングサイドで、既に知り合っていた女優・倍賞美津子も観戦していた。翌日タイトルに挑戦する馬場も通路から観ている。すると、指のぶ厚いテーピングに、セコンドかつ父親のドリー・ファンク・シニアが難癖をつけた。

「凶器でも入ってるんじゃないか? テーピングは外せよ」

 猪木が正直に指の負傷を告げ、レフェリーが通訳すると、当事者のドリーが応じた。

「OK。そのままでいい」

 午後8時23分、ゴング。地味ながら力強い足攻め中心の攻防が続いたが、20分過ぎ、セコンドの指示もあり、ドリーが左手を攻め始める。苦悶の猪木の表情に場内はエキサイトし、ドリーやセコンドのハーリー・レイスにミカンや弁当箱が投げられる。怒り狂ったファンがリングサイドに詰め寄り、日本側のセコンドが必死に止める場面も。すると、ドリーは猪木から体を離す。猪木も意図を感じたのか、ドリーと軽く握手をかわす。父、シニアが不満気に左手への攻撃の続行を促すが、ドリーはそちらを向くと、父に軽くかぶりを振った。

 その後はラフファイトを交えながらも、素晴らしいテクニックの攻防。バックドロップ、逆エビ固め、ダブルアームスープレックス、エアプレンスピン……。60分1本勝負のところ、55分が経過し、そこからは1分ごとにリングアナが残り時間をアナウンス。場内はもう興奮の坩堝だ。ドロップキックの相打ち。ドリーは逆さ押さえ込みに、頭突きまで見せ、ブレーンバスターを狙うが、その背後に猪木は降り立ち、コブラツイスト! だが、直後に、タイムアップのゴングが鳴った。解説の元レスラー、芳の里が、「う〜ん、力入ったよ」と言って腰を下ろした。いつの間にか立ち上がって観ていたのだった。

 60分1本勝負だったが、ノーフォールのまま、時間切れ引き分け。猪木は述懐する。

〈重要なのは決着がつくということだけではなく、どのように60分を戦ったか。そしてどのように引き分けたか、そのプロセスなのだ〉〈俺が見せたのは「ケガを恐れない過激なプロレス」「正真正銘のストロングスタイル」だった〉(「週刊大衆」2021年1月25日号)

 王者サイドの試合後の模様も紹介しておきたい。日本式に、皆で「バンザイ!」をすると、シニアが、ケガをおして出て来た猪木を評した。

「まったく、猪木はカミカゼだ」

「カミカゼって何だ?」(ドリー)

「イッツ・クレイジー」

 戦時中に従軍していた、シニアらしい一言だった。

「ノー」

 ドリーは返し、最大級の賛辞を猪木に贈った。

「彼はカミカゼなんかじゃない。テキサス人以上のガッツマンさ」

 2人は翌年再戦も、これもまた60分時間切れの引き分け。そして1971年を最後に、タッグでも手合わせはなかった。それから37年経った2008年、ドリーは新聞社のインタビューに、こう答えている。

〈アントニオ猪木、ジャック・ブリスコらが好敵手だった〉(毎日新聞。2008年2月27日付)

ファンク一家の墓碑銘

 後年は、「好きなことは辞めないべき。人生は走り続けることに意味があるから」を口癖に現役を続けたドリーは2024年8月、西村修をパートナーに大仁田厚と日本で電流爆破マッチを敢行。御年83才だったが、試合後は笑みも交え、語った。

「爆破とかはそんなに意味がない。私にとって大事なのは、戦う相手が誰かだから」

 そして、言った。

「日本は忘れられない。こんな素晴らしい国はない。ファンク一家の歴史の全ては日本のファンに支えられて来た。私たちも日本のファンが大好きです」

 ファンク一家の墓は、テキサス州アマリロにある。ドリーも遠からず、ここに埋葬されることになる。父シニアの墓標には、以下の文言が刻まれている。

〈DO NOT STAND AT MY GRAVE AND CRY. I AM NOT THERE. I DID NOT DIE〉(※2)

 それは、アメリカで1930年代より口伝され、日本でも2003年に知れ渡った、有名な詩だった。

〈私のお墓の前で泣かないで下さい。そこに私はいません。眠ってなんかいません〉……(新井満訳。「千の風になって」)

 プロレスを愛したドリーという風が、日本のリングを今後も優しく包みますように。

※1:『ロサンゼルス・タイムズ』1997年4月。拙訳。

※2:墓標では正式にはNOTのNと、MYのMが小文字になっている。また、「千の風になって」の訳に使われた歌詞は、CRYがWEEP、DIEがSLEEPになっているが、同詩は明確なオリジナルが存在せず、人々が自分の文体や言葉で表現して来たため、互いにその一例とみなされている。

瑞佐富郎
プロレス&格闘技ライター。早稲田大学政治経済学部卒。現在、10数冊目の近著「10・9プロレスのいちばん熱い日」(スタンダーズ)が重版出来中。

デイリー新潮編集部