モテモテのりんを演じる見上愛

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りんのモデルにも恋愛話は少なくなかった

 NHK連続テレビ小説「風、薫る」の第19週「黎明の翼」(8月3日〜7日放送)では、専門的な教育と訓練を積み重ねたトレインド・ナース(職業看護婦)の役割が、衛生観念すらなかった明治の医療現場においてどれほど重要で、大きな役割を果たしたか、大いに見せつけられた。

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 一ノ瀬りん(見上愛)は、女学校の寮で舎監を務めるため、新潟の上越地方で暮らしているが、その近くの山村で赤痢が発生した。かつて帝都医大病院で働き、いまは実家の黒川病院を継いでいた医師の黒川勝治(平埜生成)は、赤痢の現場での医療と看護にりんの協力を求め、当初は渋ったりんだが、結局、村に駆けつける。そして、事実上の収容所で、入ったら最後と思われていた避病院を徹底的に清潔にし、そこに東京から大家直美(上坂樹里)も応援に駆けつけ、感染拡大を治めることができた。

モテモテのりんを演じる見上愛

 その後、りんは黒川に請われて、1年限定という約束のもと黒川病院で働き、看護婦の養成にも携わることになった。第20週「家族のかたち」(8月10日〜14日)では、それからすでに1年が経過しており、りんは東京に戻って、直美が営む派出看護のための恵風看護婦会で、泊まり込みの看護を担当することになる。

 だが、第19週の最後に流された次週予告で、りんたちに恋愛話がからむ展開が見えたため、SNSなどでは「余計な恋愛話がからむのはうんざりだ」といった声が、数多く上がっているようだ。しかしながら、一ノ瀬りんのモデルである大関和は、実際、男性にモテたのだから仕方ない。以下、田中ひかる『明治のナイチンゲール 大関和物語』(中公文庫)をはじめとするいくつかの書籍から、和がいかにモテたかひもといてみる。

献身的な看護をとおして男性に崇拝される

 和が看護婦養成所を修了後、帝国大学医科大学付属第一医院外科で、外科看病婦取締を務めたとき、担当した患者に相馬愛蔵がいた。のちに東京新宿中村屋を創業することで知られる、長野県の現・安曇野市出身の実業家である。当時は東京専門学校(いまの早稲田大学)に学んでいて、下宿で疥癬に感染して入院していた。疥癬は肉眼で見えないほど小さなダニが皮膚のなかで大量に増殖する感染症で、体中に発疹ができ、激しいかゆみに襲われる。

 硫黄が主成分の軟膏を患部に塗るのが治療法で、塗布は原則として1日1回だが、小まめに塗った方が早く治ったようだ。しかし、軟膏が悪臭を発するので、医師も看病婦も決められた回数以上は塗らなかったが、1日も早く治して復学したいと願う愛蔵のために、和は1日3回、軟膏を塗り続け、1週間で全快させたという。

 こんなふうに献身的に看護をされれば、愛蔵の和を見る目が特別なものになるのも不思議ではない。和が第一医院にいられなくなり、新潟県高田(上越市)の女学校に移って5カ月ほど経った明治24年(1891)4月、相馬は入院中の礼をいうため、わざわざ高田に和を訪ねている。和に対してかなりの尊崇の念をいだくようになったようだ。

 相馬がいだいていたのが恋愛感情か、それに近いものだったかどうかはわからない。しかし、すでに洗礼を受けていた和を追うようにクリスチャンになり、クリスチャンとしてどう生きるべきか、和と語り合っている。さらには、和が取り組んでいた廃娼運動や貧民救済活動にも力を入れるようになった。和は看護を通じて、ひとりの男性の人生に大きな影響をあたえたことになる。

社会運動家の木下尚江から求婚された

 だが、これから述べる人物が和に対していだいたのは、紛れもない恋愛感情だった。同年5月11日、高田の教会で開かれた廃娼演説会に、弁士として参加した社会運動家の木下尚江である。木下は長野県松本市の生まれで、相馬愛蔵とは旧制松本中学の1年先輩に当たり、東京専門学校でも同窓だったので、以後も親しくつきあっていた。

 東京専門学校卒業後は松本で地元紙の記者を務めたが、政治的主張の強さが原因で退社し、このときは弁護士をめざして勉強していた。この廃娼演説会で、当時はまだ珍しい洋服を着て、オルガンを弾きながら廃娼唱歌を歌っていた和に、木下は一目ぼれしたようだ。木下は「風、薫る」で井上祐貴が演じている新聞記者、横沢公輔のモデルなのではないだろうか。

 このとき木下が21歳なのに対し、和は32歳の11歳差だった。このぐらい年上の女性と年下の男性が結ばれるケースは、当時の日本にはほとんどなく、木下の感情はかなり奇異の目で見られたものと思われる。

 のちに相馬愛蔵の妻になり、黒光という筆名で文筆活動をしていた女性は、木下の和への恋愛について次のように書いている。〈木下氏の愛の好みに大関女史ほどはまった人はなかった、と少なくとも私には考えられる。(中略)氏はよく自嘲するような持ち前の、あの明らかにわざとらしさのある調子で言った。「人形のような小娘はつまらないが、中年の女はその熟した知恵が面白い」、と〉(相馬黒光著『穂高高原』)。

 それから時間が経過し、木下は明治29年(1896)には「信濃日報」の主筆になったが、県議選の買収事件に巻き込まれ、恐喝詐欺の疑いで逮捕されてしまう。その後、禁錮8カ月、罰金10円などの判決を不服として控訴した木下が、東京の鍜治橋監獄所に収監されると、和はすぐに面会に駆けつけ、その後、頻繁に差し入れを届けるようになった。そうこうするうちに、木下の気持ちはさらに昂っていったのだろう。しまいには和に結婚を申し込んでいる。

40歳になっても浮いた話は終わらなかった

 ところが、この結婚はその後、相馬愛蔵をはじめ周囲から猛反対される。木下は廃娼運動に関わりながら、自分は遊廓に入り浸っていた時期があり、追い詰められていた女郎を救うためだったとはいえ、身請けして囲っていた時期もあった。相馬愛蔵は自分が木下を和に引き合わせてしまった面もあるので、女性関係にだらしのない木下と和が結ばれることには強く反対したという。

 また、医学界を中心にその名が広く知られている大関和が、10歳も年下の男と結ばれたとなれば、当時の社会ではどう中傷されるかもわからず、それを危惧する声もあったという。結果的に木下は和をあきらめ、ほとんどその気になっていた和も、木下と結婚するという道を断念するのである。

 この時点で、すでに40歳になっていた和だが、浮いた話はこれで終わりではなかった。先に引用した黒光の『穂高高原』には、こんな記述がある。〈女史が四十才の頃再び対象におかれた男性があり、女史はその結婚を希望してやまぬのに、この度も又島貫兵大夫等の反対にあい、畳をたたいてその無理愛を口説いた際など、そのひたむきな涙を見ては少女の初恋のような純情が感じられて、どうしてこの人はこうなのかと実際こちらは弱り切ったと、これは島貫氏の述懐であった〉

 島貫氏とは牧師であった。ともかく、和は40歳をすぎても〈ひたむきな涙〉を見せながら〈少女の初恋のような純情〉を感じさせた。看護の先駆者、社会運動家というだけではない。年齢や世間の目に縛られず、人を激しく愛する女性でもあったのである。そういう恋愛体質があり、それゆえにモテたということではないだろうか。

香原斗志(かはら・とし)
音楽評論家・歴史評論家。神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。著書に『カラー版 東京で見つける江戸』『教養としての日本の城』(ともに平凡社新書)。音楽、美術、建築などヨーロッパ文化にも精通し、オペラを中心としたクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』(アルテスパブリッシング)など。

デイリー新潮編集部