結局、老後資金はいくら必要なのか。都営団地でひとり暮らしをしている76歳女性は、9年間の年金生活で400万円を貯めた。「あるものでやり繰りすれば、そんなに不安になる必要はない」という。ライターの蜂谷智子さんが取材した――。

■47歳でシングルマザー、50代でようやく安定

「老後2000万円? 私には必要ありませんでした」

76歳のテネキ〜・カルメンさん(仮名)は、そう言い切る。彼女の現在の生活費は月約8万円台。年金は約11万円。残ったお金は貯金に回している。カルメンさんは、決して金銭的に余裕がある人生だったわけではない。

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76歳。都内の団地でひとり暮らし。47歳での離婚を機に介護職へ転身、資格を取りながら娘2人を育てた。現在は月11万円の年金で生活費をまかないながら貯金も続けている。その家計の中身をYouTubeとブログで惜しみなく公開している。 - 筆者提供

離婚してシングルマザーになったのは47歳。娘ふたりを育てながら働き始め、介護職として収入が安定したのは50代に入ってからだった。彼女には退職金もない。現役時代に投資もしていない。

2019年に社会を騒がせた「老後2000万円問題」。政府が「年金だけでは老後資金が足りない」と認めた事実は、当時の世間に大きな衝撃を与えた。そればかりか、最近では夫婦で3000万円、4000万円という数字まで飛び交う。膨らみ続ける老後資金の見積もりに、息苦しさを感じている現役世代も少なくないだろう。

なぜカルメンさんは、2000万円が必要ないと言い切れるのか。答えは資産運用の巧みさでも、特別な節約術でもない。「現役時代に老後に必要な金額を決め、そのなかで暮らせる構造」を作ったこと。その一点に尽きる。

■月11万円の年金から2万〜3万円を貯金

カルメンさんにある月の家計簿の内訳を解説してもらうと、彼女の生活の優先順位が見えてきた。

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家計簿の内容を、YouTubeやブログで公開している - 筆者提供
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2026年4月のカルメンさんの支出合計は7万8707円。食費2万2733円、住居費7110円、光熱費(電気・ガス計)6646円。やりくりの上手い下手だけで語ると、カルメンさんの老後を支える本当の考え方は見えてこない。

彼女の家計管理の核心は、予算を先に決め、その範囲で生活を設計することだ。

年金を11万円もらっているんだけど、最初から7万円から8万円ぐらいでやろうと思っていたんです。そうしておけば、残りが貯金になるでしょう」

■家計簿は「反省」ではなく「生活の設計図」

支出を記録して反省するのではなく、上限を決めてから使い道を考える。この順番の違いが、長期的な生活の安定を生む。物価高の局面でも発想は変わらない。

「お米が高くなったから、前は朝昼晩お米でもよかったんだけど、今は5キロを1回しか買わないようにしている。足りなくなりそうだったらパンとかうどんにするの。お米は好きなんだけどね」

嘆くより先に代替案を探す。その柔軟さが、9年間の年金生活を支えている。

「貯金を切り崩す前提でいるから不安になる。貯金はあくまでも万が一のためとして、あるものでやり繰りすれば、そこまで不安になる必要はないんです」

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料理は好きではないけれど、健康と家計のために料理し、足りない分はサプリで補う - 筆者提供

現役世代が老後設計で見落としがちなのが、「何を削らないか」を先に決めることだ。カルメンさんの家計には、削らないと決めている支出がある。

■削る支出と、削らない支出を明確に決める

ひとつは健康に関する出費だ。4月のサプリメント代は3292円。治療費は890円。年に1度の健康診断に加え、骨粗しょう症の経過観察のため整形外科にも通っている。

「本当はね、料理を作るのが面倒で、朝は食パンとコーヒーだけのことが多い。でも、それじゃ栄養にならないでしょう。だからサプリは結構飲んでいるんです。健康診断にもちゃんと行くし、骨密度が低いので骨粗しょう症の薬ももらっています。転んで骨折でもしたら大変だから」

また、レクリエーション費も削らない。節約本なら真っ先に削られそうな項目だが、カルメンさんは違う。脳と身体の健康のための出費として確保している。4月の娯楽費は6010円。現在は地域の体操教室に加え、シャンソン教室とヤマハ音楽教室の「青春ポップス」に通っている。

「ヤマハの『青春ポップス』は今年から。前からシャンソンもやっていたんだけど、そっちは月2回を1回に減らしたの。ヤマハは友達ができてね。終わったあと一緒に卓球にも行くんです。本当は家にいるのが好きなんですよ。一人でいるのも平気。でも75歳を過ぎて家にばかりいたら色々と衰えてしまう。楽しくてしょうがないというより、頭と身体の健康のために行っている感じかな」

健康、人付き合い、そして少しの貯金。年金生活9年目の今、年金から捻出した貯蓄は約400万円に達した。大切なのは年金収入のなかでやり繰りすること。貯金は増やしこそすれ、切り崩すことはしない。

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青春ポップスという習い事は2月から始めた。入会特典でもらったカードホルダー - 筆者提供

■限界が来る前に使える制度を調べ尽くす

住居費7110円。カルメンさんの家計簿を見ていて、ひときわ目を引く数字は、現在暮らしている都営住宅の家賃だ。

「私の場合は、本当に制度に助けられました」

そう言ってカルメンさんは振り返る。47歳で離婚を決意した当時、彼女はパート主婦だった。娘ふたりは高校生と中学生。それまでのカルメンさんは職歴らしい職歴もなく、収入も少ない。

しかし夫婦関係は限界を迎えていた。夫は大酒飲みで暴言がひどく、それはカルメンさんや娘ふたりに対する暴力にも発展していた。

「離婚するときは本当に悩みましたよ。私は月7万円のパート主婦だったから、お金もない。子どもたちは、『お母さんが先に出て生活安定させて……安定したら一緒に住もう』って言ったんです。だけど私は、それはできなかった。やっぱり子どもは連れていこうと思ったんです。

娘ふたりと夫と住む家を飛び出したときは、手持ちのお金も乏しかった。でもなんとかやってこられたのは、母子手当や、都営住宅にも入れたおかげ。あれがなかったら難しかったと思います。そんなことがあってから、自分が使える公的な支援はとことん調べるようになりましたね。その体験が、後に就いたケアマネージャーの仕事にも、役立っているかもしれない」

都営住宅は当時も競争率が高く、無抽選のポイント募集にも応募していた。しかし母子家庭のポイントがあっても簡単に入居はできなかった。だからカルメンさんは、現在の住宅の状態を仔細に申込書に記載し、窮状を訴えた。

■3万5000円の都営団地で母娘3人暮らし

「離婚して最初に住んでいた家は、本当にボロボロ。家賃は6万5千円だったんだけれど、階段の鉄が錆びて穴があいていたり、コンセントの差し込み口も壊れていて、テープで固定しないと使えなかったり。そういうことを書いたら、ちゃんと住宅局の人が家まで調べにくるんですよ。それで『なるほど、この住環境はひどい』ということになって、都営住宅に入れることになりました」

都営団地は収入によって家賃が変動するが、これまで払った家賃が1番高い時で3万5千円ぐらいで住むことができたという。

「都営団地は古かったですけれど、娘たちにそれぞれ6畳の部屋を使わせることができました。私は物置みたいな3畳の部屋で寝ていましたけれどね。格段に暮らしは楽になりました」

家賃が下がったことで、生活は少しずつ安定した。高校生の娘たちは学校で学ぶ傍らアルバイトを始め、自分で稼いだお金で世界を広げていった。そしていまは、それぞれ独立して家庭を築いている。

「孫が3人います」

カルメンさんは、しみじみとした表情で言った。

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都営団地に入れたことで、生活を立て直すことができた - 筆者提供

離婚後のカルメンさんは、当初はクリーニング店で働いていた。その後介護職に転職。理由は単純だ。

■貯金を切り崩さない理由

「ホームヘルパーの時給が良かったんですよ。介護の仕事は好きで選んだわけじゃないんです。でも私にはそれしかできないと思ったから」

好きではないと言い切りながら、介護福祉士、ケアマネージャーの資格を次々に取得し、収入を段階的に上げた。

「給料が増えても生活水準は上げない。その日暮らしみたいなことは、嫌なんです。例えば15万手取りがあるんだったら、12、3万で暮らして、毎月2万ぐらい貯金していくとか、収入規模によってできることはある。

仕事を始めたのは遅かったけれど、頑張ってキャリアアップしてきました。自分なりに貯金もしています。生活費は年金で賄うのが基本で、貯金は切り崩さない。病気とか介護施設に入るとか、いざというときに家族に面倒をかけないためにね。子どもが結婚するときや家を建てるときは多少援助もしました。それは母親としての責任。だから今も年金から、貯金しているんです」

とはいえカルメンさんの現役時代は、貯金だけに全てを捧げていたわけではない。50代で介護現場での不便を解消するために発明品を考案。雑誌やラジオに取り上げられたり、シニアアクターとしてドラマに出演したりもしていた。

■50代で身につけた一生モノのやり繰り

「自分が憧れていた活動もやってみたくてね。結局、それで食べていくことはできなかったです。発明品も頑張って売り切ったのに、制作費とトントン。俳優として再現ドラマに出ても、全然お金にならなくてね。

でも、やりたいことをやってみたんだという納得感はあります。私は50代の頃が、一番精力的に動けたし、輝いていた時代だったと思います。その時代に年金を積んで、収入のなかでやり繰りする術も身に付きました」

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雨の日に自転車で訪問介護するときの、レインコートのわずらわしさを解消するために開発した「うららパンツ」の発明は、ラジオでも取り上げられた。写真中央がカルメンさん - 筆者提供

67歳まで年金を繰り下げたカルメンさんの受給額は、現在月11万円ほど。専業主婦期間が長かった女性としては、高い水準だ。彼女の50代からの奮闘が実を結んで、今の穏やかな生活がある。

一方でカルメンさん自身も認めている。母子手当、都営住宅、介護職の高い時給。今の自分があるのは、当時の制度と時代があってこそだ、と。

■2000万円より先に答えるべき問いがある

カルメンさんは「孫の世代が同じようにできるかどうかは、すごく心配している」とも言っていた。今の現役世代が、彼女の設計をそのまま再現することは、おそらくできないだろう。

それでも、2000万円という数字を積み上げることに追われている現役世代に、カルメンさんの生き方は一つの普遍的な問いを突きつける。老後にいくら準備するかより先に、月いくらで暮らせる構造を作るのか。

自分の生活コストを把握し、使える制度を知り、削らない支出と削る支出を、自分で決められるのか。

その問いに向き合うことを後回しにしたまま、政府や金融機関が示す数字だけを目標に老後資金を貯め続けても、「足りるかどうかわからない」という不安は消えない。

老後の備えとは、誰かが決めた大きな数字を目指すことではなく、自分が月いくらで、どうやって生きるかを、まずは自分で決めることなのだ。

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「老後2000万円も私には必要ありませんでした」と語ったカルメンさん - 筆者提供

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蜂谷 智子(はちや・ともこ)
ライター・編集者
東京都出身。上智大学大学院文学研究科博士前期課程修了。語学教材の専門出版社を経て、2014年よりフリーランスのライター・編集者として活動。書籍やWebメディアに加え、企業の発信支援にも携わる。著書に『だから、ひとり暮らし』(東洋経済新報社)。東洋経済オンラインで「だから、ひとり暮らし」「1万円で楽しむ 大人のソロ活ノート」を連載中。
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(ライター・編集者 蜂谷 智子)