10万人が犠牲「東京大空襲」を指揮した男、将軍「カーチス・ルメイ」とは何者だったのか…?

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1945年3月9日から10日にかけ、米軍B29約300機が東京に無差別爆撃を行い、10万人の民間人が犠牲になった東京大空襲。その空襲を指揮した将軍カーチス・ルメイはいかなる戦術思想の持ち主だったのか。大空襲から80年余りたった今、谷光太郎著『カーチス・ルメイ 帝都を焼き払った男』(光人社NF文庫)が話題になっている。戦後日本政府から勲章を授与された将軍の生涯を綴った同書から一部抜粋・再構成してお届けする。

3月に集中した江戸の大火を研究

ルメイがサイパンに赴任して、空襲のやり方が変った。それは、まず、爆撃目標の周囲に焼夷弾を投下し、逃げ道を塞いだうえに、絨毯爆撃を加えるという非人道的な方法だった。

非戦闘員の意識的皆殺し殺戮は明白な国際法違反であるが、有色人日本人への偏見を持つ米国白人はそんな事は歯牙にもかけなかったしルメイも勿論、同様だった。

ルメイは、英国駐在の航空隊司令時代、ドイツ爆撃に向かう搭乗員に次のように語っているが、日本の都市爆撃に際しての考えも同じであっただろう。

「君が爆弾を投下し、そのことで何か思い責め苛まれるとしよう。そんな時は、きっと何トンもの瓦礫がベッドに眠る子供の上に崩れてきたとか、身体中を火に包まれ、『ママ・ママ』と泣き叫ぶ三歳の少女の悲しい視線を、一瞬、思い浮かべてしまっていたに違いない。正気を保ち、国家が君に希望する任務を全うしたいなら、そんなのは忘れることだ」

ルメイは江戸時代、江戸の大火が三月に集中していることを調べ上げた。春先の強風が吹くこの時期が最も効果的と判断した。作戦計画に従って、正方形と二本の対角線のライン上に焼夷弾を落し、住民の退路を断ったうえで。一平方米あたり三発の焼夷弾の雨を降らす。

新戦術に危機感抱く搭乗員への「厳重注意」

ルメイが最終的に命じたのは、次のような戦術だった。

・従来の一万メートル上空からの爆撃でなく、一五〇〇〜一八〇〇メートルの低空からの夜間爆撃。

・爆弾を出来るだけ多く搭載するため、防御用の一二梃の一二・七亠―董二〇亠ヾ慄ぐ贓譴倭瓦導阿掘⊇銅蠅眈茲擦覆ぁ5―特董機関砲弾は通常八〇〇〇発(重さ、三二〇〇ポンド=一・四五トン)積みこむが、これは、M69焼夷弾五〇〇発分に相当した。だから、こうすることによって焼夷弾を五〇〇発余計に搭載が可能になった。搭載燃料も最小限とする。

・燃料消費を少なくするため、基地上空で編隊を組むのはやめ、東京上空で合同させる。編隊飛行は、高度や速度を調整しなければならなくなるから、燃料消費が、単独飛行よりも格段に大量になる。ルメイは、B‐29を単独飛行させ、東京上空で編隊を組ませたのである。

・爆弾は全て焼夷弾とし、最大限の六トン搭載する。

以上の戦術が知らされた時、さすがに搭乗員間で大きな波紋が起った。

低空では、高射砲や日本軍戦闘機の餌食になる。しかも防御用の火器も取り外しての丸裸だ。燃料も最小限だから、燃料タンクをやられたら、帰還はむずかしい。こんな搭乗員の危惧の念があっても、断固実行する所にルメイの真骨頂があった。撃墜された時のため、日本円、と現地の日本人に与えられるウォルサムの腕時計二個が与えられ、捕虜になった際には、名前、階級、兵隊番号以外は教えてはならない、と厳重注意された。

三月九日、午後八時一〇分、第二一爆撃集団(サイパン、グアム、テニアンの三基地に所在)のB‐29全機三二五機が離陸した。

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