宗教改革とよく似た事件が一世紀も早く起こった国とは──【世界史のリテラシー:薩摩秀登】

写真拡大 (全2枚)

なぜ小さな国で「先駆的」宗教改革が起こったのか

一五一七年にルターが登場するおよそ一世紀前、すでにチェコのプラハで宗教改革は起こっていました。

その指導者は、はたして異端だったのでしょうか、それとも英雄だったのでしょうか?

指導者ヤン・フスの火刑に端を発する、中世後期最大の教会改革運動の全貌に迫る世界史のリテラシー ボヘミアで、なぜ「先駆的」宗教改革が起こったのか フス派戦争では、カトリック世界全体を揺るがせた事件の影響を解説していきます。

今回は、明治大学経営学部教授の薩摩秀登さんによる本書より、そのイントロダクションを公開します。

 中世ヨーロッパにおけるローマ・カトリック教会の権威は絶大なものでした。神と人との唯一の仲介者として、宗教だけでなく、政治や日常生活の広範囲にわたって強い影響力を行使していました。この体制に疑問を突きつけて、信仰そのものを根本から問いなおし、教会の、そして社会全体のあり方を大きく変えていったのが宗教改革です。

 通常、宗教改革は、一五一七年にドイツのヴィッテンベルクの修道士マルティン・ルター(一四八三~一五四六)が、教皇による贖宥状(しょくゆうじょう)販売に対して「九十五箇条の論題」を提示し、異議を唱えたことから始まったとされています。ルターが投じた一石の反響はすさまじく、ローマ教皇の権威を否定するいわゆる非カトリックの宗派が各地で形成され、十六世紀半ばには、かつて一体であったカトリック圏は、大きく分裂していきました。

 カトリック教会に叛旗を翻し、そこから分離した人々は一般にプロテスタントと呼ばれます。このプロテスタントの教会では、人は信仰によってのみ義とされると唱えられ、聖書に根拠を持たないものを排除し、身分としての聖職者を否定し、修道院を廃止するなど、徹底した改革が進められました。この動きはカトリック教会側にも改革の機運を呼び覚まし、対抗宗教改革あるいはカトリック改革と呼ばれる運動が進められました。こうして宗教改革は、ヨーロッパにおける国家や社会と教会の関係を、そして人々の日常的な態度や世界観を根底から変えていき、近代への大きな橋渡しをしたといわれています。

 こうした宗教改革が起こった背景として、中世末期のヨーロッパでは教会の道徳的堕落が目立っていたこと、一方で戦争や疫病に見舞われた人々の間で強い信仰心が芽生えていたことがしばしばとりあげられます。確かに、十四世紀から十五世紀にかけてのヨーロッパでは、英仏百年戦争をはじめとする戦乱が各地であい次ぎ、これに黒死病(ペスト)流行などが重なった結果、人々の間には漠然とした不安が広がっていました。しかも十四世紀末には、カトリック教会自体が分裂状態におちいってしまい、各方面に大きなひずみが生じていました。社会を指導する役割を担う教会、そして聖職者に対して、人々が厳しい目を向けたとしても当然であったといえるでしょう。

 実際、教会の刷新を求める運動はこの時期から起こっていました。イングランドのジョン・ウィクリフ(一三二〇頃~八四)は聖書を最高の権威とみなして、カトリック教会の権威を否定する思想を展開しました。

 ウィクリフの思想を受け継いだボヘミアのヤン・フス(一三七〇頃~一四一五)は、説教を通じて教会を果敢に批判しました。民衆に危険な思想を広めているとみなされたフスは、教会によって異端者と断定され、火刑に処せられてしまいます。しかしフスを支持するボヘミアの人たち、すなわちフス派は逆に結束を強め、これを撲滅しようとしてカトリック教会側が差し向けた軍を撃退してしまいました。その後も教会側は何回もボヘミアに軍を送りましたが、最終的にフス派の根絶をあきらめざるを得ませんでした。ルターに始まるといわれる宗教改革とよく似た事件が、それより一世紀前に起こっていたのです。

 しかしここでいくつかの疑問が生じます。フスやフス派の運動は、十六世紀にドイツで始まる宗教改革と同じようなものだったのでしょうか。もしもこれが“先駆的”な宗教改革と呼べるようなものであったならば、両者はどのように関連するのでしょうか。それともボヘミアの事件は単なる前哨戦、あるいは突発的な事件のようなものだったのでしょうか。

 また、フスやフス派の運動に宗教改革と多くの共通点があるとするならば、なぜそれはルターの場合のように、ヨーロッパ全体に大きな転換をもたらすような展開にならなかったのでしょうか。

 そして、この運動が生じた場所がなぜボヘミアなのでしょうか。詳しくは後で述べますが、ボヘミアとは現在のチェコ共和国西部のプラハを中心とした地域の名称で、ドイツ語ではベーメン、チェコ語ではチェヒと呼ばれます。当時は、近隣のモラヴィア、シレジア、ラウジッツなどとともに「ボヘミア王冠諸邦」という一種の連合国家のようなものを形成していました。地理的にはヨーロッパのほぼ真ん中ですが、ヨーロッパ全体の歴史の流れの中では、やや東寄りの比較的小さな国です。このような国でなぜ、宗教改革とよく似た事件が一世紀も早く起こったのでしょうか。チェコ人の民族運動と関連したという説明もありますが、広く一般の人々に民族意識が普及するのはずっと後の十九世紀の話です。仮に十五世紀にその端緒のようなものがあったにしても、本来、信仰と民族は全く別の次元の問題です。両者の間に何か本質的な関連性はあったのでしょうか。

 そしてボヘミアで生じた改革運動は、その後どうなったのでしょうか。

 本書は以上のような点を念頭におきながら、十五世紀にボヘミアで生じた教会改革の運動について、その歴史的背景から、後の時代への影響まで含めて、光をあててみましょう。以下、第一章では、フスという人物は何を主張したのか、その死後に生じたフス派戦争とはどのような戦争だったのか、その経過をたどります(なお、この戦争は「フス戦争」と呼ばれることもありますが、フスの支持者たちの戦争であって、フス自身は関わっていませんから、「フス派戦争」と呼ぶ方が正確でしょう)。第二章では、ボヘミアでこうした運動が生じた背景として、中世ヨーロッパのカトリック教会はどのような体制を築いたのか、その何が問題とされたのか、その中でボヘミアはどのような位置にあったのかを考えてみます。第三章では、フス派戦争の帰結からルターの登場までの時期をたどり、両者のつながりについて考察します。そして第四章で、十六世紀以降の歴史の中で、フスやフス派がどのようにとりあげられてきたかを紹介し、その歴史的な意義について考えてみます。

 このように、ヨーロッパにおける社会と教会の関係について、そしてなぜ教会をめぐって社会が大きく揺れ動いてきたかについて、ボヘミアという国の事例にもとづいて考察してみましょう。いわゆるメインストリートからは少し離れた場所に視点を置くことで、通常の歴史とは違った側面も見えてくるかもしれません。

『世界史のリテラシー ボヘミアで、なぜ「先駆的」宗教改革が起こったのか フス派戦争』では、

・フスは何を主張し、フス派は何のために戦ったのか?
・なぜ、中世後期最大の教会改革運動がボヘミアで起こったのか?
・フス派の運動は、「早すぎた宗教改革」だったのか?
・フスやフス派は我々に何を語っているのか?


という4章構成で、教皇権衰退のきっかけとなった事件の全貌に迫ります。

著者

薩摩秀登(さつま・ひでと)
1959年、東京都生まれ。明治大学経営学部教授。一橋大学社会学部卒業。同大学大学院社会学研究科博士後期課程修了。博士(社会学)。専門は東欧・中欧の中世史および近世史。著書に『プラハの異端者たち─中世チェコのフス派にみる宗教改革』『物語 チェコの歴史――森と高原と古城の国』『図説チェコとスロヴァキアの歴史』など。共編著に『チェコを知るための60章』など。
※刊行時の情報です。

■『世界史のリテラシー ボヘミアで、なぜ「先駆的」宗教改革が起こったのか フス派戦争』より抜粋
■脚注、図版、写真、ルビ等は権利などの関係上、記事から割愛しています。
■TOP画像:現在のプラハ旧市街広場。左が彫刻家ラジスラフ・シャロウンによるヤン・フスと支持者たちの像。その前に建つのが2020年に復元建立された聖母マリア柱像