作家・阿刀田高が語る90歳ひとり暮らし。「脚は少し不自由だけれど、リュックを背負い、杖をついて買い物へ…」
1月に91歳を迎えた作家の阿刀田高さんは、妻・慶子さん(2025年5月逝去)が介護施設に入所した2023年から一人暮らしを始め、現在も「“まあまあ”でいいじゃないか」をモットーに軽やかな日々を過ごしています。そこで今回は、阿刀田さんの2025年の著書『90歳、男のひとり暮らし』から一部を抜粋し、お届けします。
【書影】脳と体の衰えを知恵とユーモアで迎え撃つ。直木賞作家の「老年のヒント」。阿刀田高『90歳、男のひとり暮らし』
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教養がありますか ――日課
朝起きてまず小用に立つ。トイレットの壁にカレンダーが貼ってあるので、
――*月*日、*曜日か――
と見る。友人とのおもしろい会話があった。「老人にはキョウヨウが大切なんだ」「教養?うん、大切かな」「それじゃない。今日用だ。今日、用があるかどうかだ」確かに。今日、用があれば生活にリズムが生じ、張り合いのようなものも生まれる。トイレットで、
――そうだな。今日は買い物に行こう――
寝室に戻り乱れたベッドを整える。これは過日新聞の広告欄に本の内容紹介があり“いつも機嫌のよい人の習慣”として“朝、ベッドを整える”があったからだ。“そうかなあ”と疑ったが、機嫌はよいほうがいい、とりあえずこのごろ実行している。
買い物は10時を待ち10時を過ぎてから。スーパーマーケットなど近所の商店はおおむねこの時間からだ。リュックを背負い、杖をつきトコトコと行く。脚が少し不自由なのは、5年前、自転車に乗り損ね、脊椎の第2腰椎の圧迫骨折、手術の必要はなかったが、6ヵ月コルセットを背負い痛みだけはとれた。歩行が弱くなり、家の中はともかく外は1000メートルくらい歩くと、
――もういいか――
である。出版社がすてきな杖を贈ってくれた。
――こんなもの、どこかに忘れるぞ――
と思ったが……忘れない。昔、昔、小説の新人賞の選考会、候補作品で眼の不自由な主人公が賊に襲われ、杖を捨てて大切な荷物を守った場面があり、委員の一人が「これはよくない。眼の不自由な人は杖が第一だ」と言っていたけれど、なるほど、なるほど、脚が不自由になっても杖を忘れることはないらしい。杖をついて行くとみんなが親切にしてくれる。身体はさほどうれしくもないが、
――この国も捨てたもんじゃない――
大袈裟ながら心がうれしい。
私の住む町は(ここだけではないのかもしれないが)脚腰の弱い人が多く、私が買い物へ行く午前中には、杖もあれば車椅子も目立つ。一本道をこちらから杖をつきつき行くと向こうからも杖がやってくる。近づく、すれちがう、べつになにも起きないけれど、一瞬、心の乱れがあるような気がして、
――これ、なんなんだ――
いまだによくわからない。
日々の食事は……
朝、起きて小用の後がすっかり長くなってしまった。トイレットを出ると廊下の隅で体操をする。ラジオ体操のようなものに加えて脚腰に少し強い屈伸運動を加えたりしている。心は現状維持、いつまで今のままでいられるか、やっぱり少しずつ日に日に弱っていくのだろう。
朝ご飯はほとんど決まったメニュー。買い物は大抵の品はまとめて届けてもらっているが、その注文をもとに肉、魚、菓子など今日明日にほしい物を探す。半分は買い忘れる。昼飯は簡易食、お湯をかければそれでよいものなど、生のきゅうり、キャベツ、なければトマト・ジュースを飲んだりする。
――夕食はなんにしようか――
これが買い物のときのささやかな思案である。
豚汁、焼飯、焼肉、焼魚、これらは下手くそながら可能の範囲だ。そして缶詰め。ツナ、鰯、鯖、鮭、これは高い。あ、忘れてはいけない。鯨の大和煮、たくさん買い置きがある。私の世代にとってはセンチメンタル・ヴァリュー。少年のころは本当においしかった。今日このごろ、これがメインとなる夕食もよくある。
なんとなくテレビを見る日も
今日用のない日は、
――なにをしているのかな――
ぼんやりも多い。なんとなくテレビを見る。
朝の新聞で“見たい番組あるかな”と一応テレビ欄に赤印なんかつけておく。
プロ野球、大相撲、国会中継もたまに見る。
――議員は眠いだろうな――
あまりやりたくない職業だ。
午後はやたら推理ドラマが多く、退屈しのぎによく見るが、
――殺人が多いな――
世の中、これほど殺人事件があるわけではあるまい。各テレビ局とも軒並み殺しあっている。
昔、テレビドラマの台本創りに関わったことがあって、プロデューサーから、
「2時間ミステリーなら15分に1回、殺してください」
と言われた。チャンネル確保のこつらしい。真相解明に近づくと一番重要な人が殺されて振り出しに戻る。それにしても、
――みんなうまく創っているなあ――
いくつもの殺人にそれなりの理由があったりして……作者の努力のほどが見えてくる。
今でも時折松本清張の原作が放映されることがあり、タイトルが変えられてなければ大抵ストーリィが思い出せるのだが、これらはさすがに入念だ。なぜ殺人を犯さなければならないか、リアリティ充分に迫ってくる。身に染みて、
――辛いなあ――
チャンネルを変える
チャンネルを変えて、お笑いへ……。落語があれば見るけれど漫才のたぐいは、
――つまんないのが多いなあ――
ど突き漫才はもともと好きじゃないし、曲芸じみたのや珍妙な衣裳を着てたり、やたら裸になったりするのも顔を背けてしまう。私がぜんぜんおもしろくないのに画面で大笑いが起きたりして……あれは確かスタジオに見物に来た人たちにアシスタント・ディレクターから、放映の前に「私が手を廻したら、皆さん笑ってください」と指示があるんじゃなかったっけ。
チャンネルを変えよう。NHKの『映像の世紀』など、
――しっかりしたものもあるなあ――
めぐりあうと本当にうれしい。
仕事で浮かんでくる公式
ときどき気が向けば仕事をする。その時には、
X×Y=C
この公式が浮かんでくる。若い頃に思案したことだ。Xはアイデアである。作品を創るアイデア、そのよしあしだ。Yはそれを書く能力だ。広い意味での筆力だ。アイデアと筆力が交って作品ができあがる。

(写真提供:Photo AC)
作家としてデビューした頃はXはそれなりに大きい。新鮮なアイデアが浮かぶ。しかし筆力Yはまだ小さい。下手くそだ。年齢の増加とともに(私の場合は)Xは乏しくなるがYは増す。この関係でCは……作品の出来ばえはコンスタント、つまり一定のCを保つが、これはあらまほしい状態であり、間もなく崩れる。Xは新鮮さを欠き、Yはマンネリ、いや、衰える。Cはどんどん小さくなる。クリエーターの宿命ではあるまいか。
当然のことながら私の場合はこの公式が破綻している。
――なんとか食い止めることはできないか――
できない。絶対にできない。だから諦める。
そしてすばらしいことに90歳ともなると諦めることになんの屈託もない。達観の極みである。「へえ、Xってなんですか。Yが筆力かな?」と呟く。ときに呟ききれず、ここに書いたりするのがいじましい。なさけない。お許しあれ。
図書館へよく足を運ぶ
近所に区立図書館の分館があり、ここへはよく足を運ぶ。小さな図書館なのでなにか厄介な目的があるときは果せないこともあるが、うしろに区立の充実した本館が控えているから必要な資料の所在を確かめて注文をしておけば2日後、3日後には届いている。
全集物などは洋の東西を問わず自前で揃えておく必要など全くない。必ず借り出すことができる。むしろ手元に置きたいのは、くだらない本、怪しい本、まれにはそれが必要となることがある。「キョウヨウがあるといい」なんて、こんな駄じゃれがほしいときもあるのだ。
必要な資料とはべつに、私は図書館の書棚をただ見て歩くのも好きだ。もとそれが職業だったせいもあるのかもしれないが(逆にそれがマイナス要因になることもあると思うが)とりとめもなく本の行列を見て歩き、
――えっ、こんな本があるのか――
おもしろい発見があったりする。過日はバルビュスの『地獄』を見つけて借り出した。りっぱな小説だが、ひところ艶書の極みだった。夕食後に昔をたどる。
かくて一日を終えると、いじましくまたテレビをつけながらベッドに入り毛布を引く。そのまま眠りがきて夢を見る。どういうわけか、わが家に帰り着けない夢をよく見る。
――そんな体験は一度もないんだがなあ――
どういう深層心理なのだろう。
――この先にあるのかな――
しらない土地をさまよい、どうにも帰れない。ありうるかもしれない。少し怖い。でも平生を取り戻し、明日のスケジュールを考え、
――今日、用があったかな――
※本稿は、『90歳、男のひとり暮らし』(新潮社)の一部を再編集したものです。
