仲代達矢さん(C)東海テレビ放送

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 生涯に出演した映画は160本以上。2025年11月、92歳で大往生を遂げた名優の足跡は、そのまま戦後日本映画の歩みと軌を一にしていた。映画評論家の吉田伊知郎氏が膨大な作品から名作を厳選。“映画俳優・仲代達矢”の大いなる世界を案内する。

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 映画演劇界で70年にわたって多大な功績を残した仲代達矢が他の誰とも異なったのは、映画と舞台を均等に活動の場とした俳優――本人が好んだ言葉を使えば〈役者〉だったところだ。

 1年の半分を映画出演に充て、残りを舞台に費やす。全盛期の日本映画への出演を続けながら、それを実行することがどれだけ困難を伴う作業だったか。二兎を追い二兎とも得た稀有(けう)な存在であった。

仲代達矢さん(C)東海テレビ放送

 1950年代半ばから現在に至るまで仲代が出演した映画は160本に及ぶ。小林正樹、岡本喜八、黒澤明、市川崑、成瀬巳喜男、木下惠介、勅使河原宏らそうそうたる巨匠監督たちの映画から、インディペンデント映画まで。それは日本映画の黄金時代から、衰退と再生をたどる道程と重なり合う。仲代の出演作を振り返ることは、戦後日本映画の歴史を俯瞰することにもなる。

 もっとも、誰もが知る名作だけで仲代を見ると、〈目をむいて熱演する人〉といったステレオタイプなイメージにとどまってしまう。実際は作品ごとで硬軟自在に演技を変化させる個性派俳優だった。

 今回、筆者の独断と偏見で、仲代の演技を堪能できる10本を挙げたが、それらの作品を軸に、70年にわたる映画俳優としてのキャリアを振り返ってみたい。

サザエさんではノリスケ役を

 1952年に俳優座養成所へ入所し、3年後に俳優座へ正式入団した仲代は、この年、ヘンリック・イプセン作の舞台「幽霊」に主演し、新劇演技賞を受賞する。このとき、外国人を演じるためにオキシドールで髪を脱色していたが、それが幸運を招いた。月丘夢路主演のラジオドラマの収録現場に居た金髪の仲代に、月丘が目を留めたのだ。彼女は主演する日活映画「火の鳥」(1956)の相手役を探していた。さっそく月丘は監督らを誘って「幽霊」の舞台を鑑賞し、仲代の起用が決まる。舞台が映画の大役を引き寄せたのだ。

 本格的な映画デビューを果たした1956年は、長谷川町子の原作漫画を東宝が江利チエミ主演で実写化した「サザエさん」にも、サザエのいとこノリスケ役で出演。

 磯野家へ居候することになったノリスケは、サザエたちに振り回される。鶏小屋を作るのを手伝っているうちに出られなくなってしまい、おやつを持ってきたサザエに餌のように食べさせられるくだりなどは抱腹絶倒である。後年の仲代を思えば意外かもしれないが、こうした軽やかな演技もこなしてしまう。なお、仲代はシリーズ3作目「サザエさんの青春」(1957)にも出演している。

 日活、東宝の映画に続々と出演したことで、早くも映画会社からは注目の的になっていた。事実、日活と東宝は専属契約を持ちかけている。この時代、映画スターになるには、大手映画会社に所属することが必須だった。東宝の三船敏郎、日活の石原裕次郎、東映の中村錦之助、大映の勝新太郎ら、映画会社がスターを生み、育てていた。

玄関で土下座

 しかし、舞台に立ち続けるために、仲代はこの誘いを断ってしまう。専属契約を結べば、必然的に俳優座を辞めることになり、出たい映画だけでなく、そうではない映画にも顔を出さざるを得なくなる。もっとも、劇団所属のまま良い役が回ってきても、舞台が入っているために映画への出演依頼を断らなければならない可能性もある。

 実際、小林正樹監督の「黒い河」(1957)では、そうした事態に直面することになった。監督から直々に指名を受けて「人斬りジョー」という魅力的な悪役がオファーされ、仲代は大いに乗り気になったものの、撮影と舞台が3日間だけ重なることが判明する。仲代は諦め切れずに俳優座代表の千田是也の自宅玄関で土下座し、映画出演の許しを得ようとしたが、応じてもらえなかった。

 後に仲代は、俳優座を退団(1979年)した理由の一つに、「先輩たちの多くは、演劇を続けていくために映画で稼ぐ、という考えでした。私は演劇も大事だけれど、映画もそれと同じように大切にしたい。そこに気持ちのずれがありました」(「読売新聞」2015年7月1日)と明かしている。「黒い河」の一件は、仲代にそうした違和感を抱かせる最初の事件だったのかもしれない。

 最終的に、見かねた劇団創立メンバーの一人である東野英治郎が舞台の代役を買って出たことで仲代は映画出演を実現させた。劇団の先輩である東野が救ったのだ。

「黒い河」には、監督昇進直前の大島渚が助監督で就いていた。仲代の無機質、無表情を基調とした演技を目の当たりにした大島は、「スクリーンの上に、はじめて、素人のような魅力と玄人の腕を持った男が登場した」(『戦後映画・破壊と創造』三一書房)と絶賛した。

 飛躍しつつあるタイミングで良い役をつかみ取り、期待以上の演技を見せる――。昔も今も、上昇期にある俳優は、自分を生かす役に巡り会えるかどうかで、その一生が決定付けられる。

仲代にとって決定的な役

 日本の映画入場者数が歴代最高となる11億2700万人を記録した1958年は、仲代にとって決定的な年となった。自身の出演作ベストに数える映画と立て続けに出会ったからだ。

 1950年の金閣寺放火事件を基にした三島由紀夫の『金閣寺』を映画化した市川崑監督「炎上」は、市川雷蔵が金閣(劇中では驟閣〈しゅうかく〉)の美しさに引かれ、遂には火を放つ吃音の若き僧侶を演じた。仲代は、彼の大学の同級生役である。足が不自由で、同情心を買いながら女性たちを懐柔する。そして主人公には辛辣(しんらつ)な言葉を浴びせかける冷酷無比なキャラクターである。「こういう屈折した役が好き」(「読売新聞」2015年6月29日)という仲代は、雷蔵と堂々と渡り合った。

 この年から、仲代は足かけ3年にわたって製作された超大作で主役の座を手にする。小林正樹監督「人間の條件」(第1部・2部、1959・1月)、(第3部・4部、同11月)、(第5部・6部、1961)である。

 五味川純平の同名原作を基に、軍隊の非人道性と、戦争によって過酷な運命をたどる主人公・梶の姿を描いた本作は、全6部で9時間半の大長編だった。梶を誰が演じるかが注目の的だったが、仲代自身はそれまで悪役が多かったこともあり、ヒューマニストの梶役が回ってくるとは想像もしていなかった。小林は熟慮の末に仲代を指名した。「黒い河」への出演が、この大抜てきにつながったのだ。

「人間の條件」シリーズによって、仲代は押しも押されもせぬ存在となるも、公開直後に「僕自身の値打が変ったと思えないのに、マスコミや映画会社の扱いが変るのには、正直なところ驚いた」(『役者 MEMO 1955―1980』講談社)と、戸惑いを記している。

 それを象徴する出来事が、第5部・6部の撮影準備中に起きた。小林の元へ黒澤明監督が訪ねてきて、「用心棒」(1961)の三船敏郎の敵役に仲代を貸してほしいと言うのだ。映画黄金時代、気鋭の監督たちは、自分ならば、この俳優をこう使うと、互いに張り合っていた。

人工のマスクのよう

 成瀬巳喜男監督は、仲代の眼光鋭く力んだ演技を拭い去って自作に起用した。中でも高峰秀子が銀座のバーのマダムに扮した「女が階段を上る時」(1960)で、店のマネージャーを演じた仲代は絶品だった。控え目に高峰に寄り添い、仄かな思いを抱きながら静かに感情を高ぶらせる。

 同じように、黒澤・小林らが作る重厚でシリアスな仲代のイメージを覆したのが岡本喜八監督だった。仲代の素顔に近いボンヤリした一面をクローズアップして、「殺人狂時代」(1967)を撮った。近眼で丸メガネをかけた水虫に悩む大学講師を演じる仲代は、全くサエない男である。そんな彼が殺し屋から命を狙われるが、あれよあれよと返り討ちにしてしまう。次々に刺客が送り込まれるが、仲代は実に軽快な身振りで退治していくのが何ともおかしい。

 奇想天外な「殺人狂時代」と同時期には、不条理劇の傑作「他人の顔」(1966)にも出演している。安部公房の同名原作を勅使河原宏が監督した本作で、仲代は顔面に大やけどを負い、精巧なマスクを着用して他人になりすます男を演じた。映画デビュー時に大島渚が指摘した仲代の〈無表情〉が発揮され、彼の顔が人工のマスクのように思えてくる。仲代の計算し尽くされた表情の演技がなければ、この作品の世界観は成り立たなかったに違いない。

仲代と映画環境

 仲代が自らの代表作として筆頭に挙げる小林正樹監督「切腹」(1962)は、黒澤の「用心棒」、「椿三十郎」(1962)への挑戦として撮られたものだった。

 当時29歳の仲代は、本作で五十余歳の浪人を演じている。井伊家上屋敷に現れた浪人が、思うところあって玄関先を借りて切腹したいと申し出る。この特異なシチュエーションが、全編を貫く緊張感と様式美で描かれる。

 20代最後の年に出演したこの作品は、仲代にとって、映画俳優としてもう終わってもいいと思えるほど達成感のあるものだった。

 時を同じくして、仲代を取り巻く映画環境は変わりつつあった。映画デビュー間もない頃ピークに達していた映画人口は最盛期の半分にまで落ち込もうとしていた。日本映画の劣化が叫ばれ始め、仲代も巨匠監督の名作に次々と出演する機会は減少していった。だからといって、それ以降は無気力で映画に出ていたわけではない。むしろ、30代になって演技に余裕が生まれ始めていた。

 黒澤明監督「天国と地獄」(1963)は、幼児誘拐を巡る息詰まるサスペンス映画だ。誘拐捜査にあたる戸倉警部を演じる仲代は、アメリカ映画に出てくるようなスマートな警部を体現し、捜査を指揮する。日本の刑事ドラマとは一線を画すクールな警部は、仲代の余裕のある演技によってリアリティーを生み出していた。

 巨匠監督たちの名作に隠れているが、恩師の妻と不倫関係にあった弁護士を演じた堀川弘通監督「白と黒」(1963)も忘れがたい一本だ。仲代は不倫相手を殺害するが、居合わせた窃盗犯に嫌疑がかかる。いつ仲代の犯行が露見するかと思いきや、二転三転し、最後まで結末が読めない。仲代は黒縁メガネをかけ、鋭い眼光を隠して淡々とした芝居に徹している。俳優座の師である千田是也が恩師の弁護士を演じており、二人の共演シーンには緊張感が漂うのも見どころだ。

苦沙弥の暗い顔

 1960年代後半から、三船敏郎らは海外資本の映画へ参加するようになるが、仲代もイタリア映画「野獣暁に死す」(1968)というマカロニ・ウエスタンに出演している。日本人役のオファーではないことが彼を刺激した。いわく、「本ものの西洋人の中に一人入ってこの僕が本当に西洋人に見えるかどうか、西洋人からみてそれがおかしくないものかどうか」(前掲『役者』)を実証しようというのだ。敵役の仲代は堂々たる存在感を放ち、終盤では「用心棒」を思わせる一騎打ちを演じてみせる。

 1970年代に入ると、映画会社の倒産、路線変更など日本映画が大きな変化の波に見舞われる。こうした時代に、かつて2番手で仲代を起用した監督たちが、今度は仲代を主役にした映画を撮り始める。

「炎上」、「鍵」(1959)で組んだ市川崑は、夏目漱石原作の『吾輩は猫である』(1975)で、猫の主人である苦沙弥を仲代に演じさせている。漱石がモデルとされているだけに、仲代は風貌も似せ、神経質で頑固な明治時代の文化系男子を飄々(ひょうひょう)と演じている。大仰な演技でユーモアたっぷりに笑わせつつ、市川は苦沙弥が抱える寂寥(せきりょう)感を描くことを忘れない。のんきに生きているようだった苦沙弥が不意に見せる暗い顔は、仲代にしか表現できないと思わせる。この作品は筆者にとって仲代のベストアクトである。

集大成のような一本

 黒澤明は、「影武者」(1980)の撮影開始直後に降板した勝新太郎に代わって急きょ、仲代を主演に起用する。勝をイメージして作られた役に自分を合わせるのに仲代は苦労することになるが、こうした役者の生き方もあると達観していたという。そして、黒澤が最初から仲代を想定した「乱」(1985)は、2番手、代役として尽くしてくれた仲代への恩返しを思わせる集大成のような一本となった。

 1990年代〜2000年代にかけて、映画の仲代は顔出し程度の特別出演が多くなっていく。

 60代になっても変幻自在な演技をこなせる仲代を生かしたのは、香港映画だった。菊地秀行原作の「妖獣都市〜香港魔界篇〜」(1992)で、世紀末の日本と香港を舞台に、人間界の征服を狙う150歳の黒幕妖獣を仲代は演じた。ワイヤーアクション、特殊メイク、SFXを駆使した映像の中、仲代は上半身裸になってド派手な戦いを演じて見せた。

表情だけで成立

 かつて、仲代をさまざまな役で生かした時代の日本映画だったら、五社英雄監督のように、ケレン味のある演出が持ち味の監督もいただけに、仲代の演技を巧みに劇へ取り入れることができたが、現代日本映画は仲代を使いこなせなくなっていた。それを打破したのは、テレビのドキュメンタリー監督と、インディペンデント映画の監督だった。

 東海テレビが製作した「約束 名張毒ぶどう酒事件 死刑囚の生涯」(2013)は、1961年に三重県で起きた「名張ぶどう酒事件」を描いたドキュメンタリー・ドラマだ。一審での無罪を経て、最高裁で死刑判決が下った奥西勝を仲代が演じている。本作の監督はドラマの演出経験がなく、スタジオに造られたセットの独房で一人芝居をする仲代を、ドキュメンタリーを撮るように記録する。60年近く獄中に居た奥西を渾身の演技で仲代は演じ、ドキュメンタリーとフィクションの境界を忘却させる作品となった。

 巨匠監督たちと長きにわたってコンビを組んできた仲代が最後に出会った監督が、「春との旅」(2010)、「日本の悲劇」(2012)、「海辺のリア」(2017)を撮った小林政広監督だった。

 祖父と孫のロードムービー「春との旅」を気に入った仲代は、プロモーションで試写会に立ち会う度に作品を見ていたという。

 筆者は、年金不正受給問題をテーマにした「日本の悲劇」公開時、小林監督に取材する機会があった。これは仲代の新たな代表作だと感じた筆者は、その演技について尋ねた。以下にそのときのインタビューを基に一部を紹介しよう。

――(「日本の悲劇」の)仲代さんの演技の中でも突出して素晴らしいと思ったのが、奥さんの遺影を見ながら、メガネを外す顔のアップです。あの無表情は、今まで見たことがなかったなと。

小林 あのシーンは、モニターを観ていて、鳥肌が立ちましたね。こんな仲代さんの顔を撮ったのは、この映画だけだと思いました。無防備で、虚無的で、陰惨。この映画は、ひょっとして凄い映画になるんじゃないかって、あの時、内心思いました。

――東日本大震災が発生するシーンの回想も、仲代さんの表情と音だけで表現していますね。部屋を揺らしたりしなくても、仲代さんの表情だけで成立してしまう。

小林 スタッフは、どうやって揺らそうかとか当たり前のように考えていたみたいだけど、音だけで処理するからだいじょうぶですと言ったら、そんなことあり得ないだろうと言われて。揺らして何かモノが落ちればそれで地震なんだろうけど、そこで揺れてるって芝居してもらってもリアリティはないと思ったんです。

(https://intro.ne.jp/contents/2013/09/12_1924.html)

 仲代の演技と向き合い、それを現代の映画に落とし込む小林と出会えたことは、仲代にとって、この上ない幸福だったのではないだろうか。残念ながら小林は仲代が心待ちにしていた次回作を実現することなく、2022年、68歳で急逝する。

 もし、小林が健在だったら――仲代は今も舞台に立ちながら、映画でも90代でしかできない新たな演技を見せてくれていたに違いない。

吉田伊知郎(よしだいちろう)
映画評論家。1978年生まれ。兵庫県出身。大阪芸術大学映像学科卒。「キネマ旬報」「映画芸術」「映画秘宝」など多くの雑誌に寄稿。著書に『映画評論・入門! 観る、読む、書く』、共著に『映画「東京オリンピック」1964』『映画監督、北野武。』など。

「週刊新潮」2026年1月1・8日号 掲載