『近畿地方のある場所について』©2025「近畿地方のある場所について」製作委員会

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 少女の行方不明記事と奇妙な目撃証言、林間学校での中学生の集団ヒステリー事件、動画サイトに書き込まれた気持ちの悪いコメント、そしてオカルト雑誌編集者の失踪……。それぞれに不気味な怪異が、“ある場所”に向かって全てが線で繋がっていくオムニバスホラー小説、『近畿地方のある場所について』。WEB小説サイト「カクヨム」での投稿で注目を集めた作品であり、書籍化されるや大ヒットを果たし、コミカライズもおこなわれた。

参考:『近畿地方のある場所について』好スタート 国内ホラー映画ブーム、本格化の兆し

 その魅力的な内容から、映画化企画がいくつも立ち上がり争奪戦が繰り広げられたというが、そんなヒット作の映画版が、ついに劇場で公開された。ここでは、本作『近畿地方のある場所について』について、もともとの画期的な要素や、映画版ならではの特徴を見ていきながら、その真価を明らかにしていきたい。

※本記事では、『近畿地方のある場所について』のストーリー展開を一部明かしている箇所があります。

 オカルト雑誌の編集者が行方不明になる事件が、ストーリーの発端だ。彼が姿を消す前に調べていたのは、過去の未解決事件や怪現象の数々。オカルトライターの瀬野千紘(菅野美穂)は、編集者の小沢(赤楚衛二)に依頼され、記事を担当することに。ふたりは取材をしながら、失踪した編集者が残した不気味な資料の数々を調べていく。

 心霊スポット「首吊り屋敷」での動画配信騒動、林間学校で撮られたホームビデオ、TVカメラが映した異様な風習、異様なアニメ作品の放送、そして「見たら死ぬ動画」の存在などなど、劇場版では映像での表現が可能になり、恐怖演出の幅が大きく広がった。とりわけ「資料映像」の作り込みのレベルが非常に高く、現在「モキュメンタリーブーム」で注目される作品群のなかでも、一線を画す出来になっている。

 それもそのはずで、本作を手掛けている監督は、日本の「モキュメンタリーホラー」の第一人者である白石晃士なのだ。白石監督は、ビデオシリーズ作品『戦慄怪奇ファイル コワすぎ!』や、極端にエクストリームな企画『貞子vs伽椰子』(2016年)、破壊的なホラー作品『サユリ』(2024年)など、ユーモアを作品に反映させるイメージが強く、それは本作でも一部活かされているが、それらの作品を観ても分かるように、怖い表現もしっかり怖く撮ることができる。

 本作の表現では、やはり「見たら死ぬ動画」の完成度が素晴らしい。『リング』(1998年)に登場する「呪いのビデオ」は、その種の不気味な表現として、一つの金字塔と言ってもいい出来だったが、ここでは、より現代的な素材を駆使して、ノイズや音響を盛り上げる要素として使うのでなく、それ自体をも動画の重要な構成要素として、繊細にチューニングされている。そのおかげで、感度の高い映像作品として、「呪いのビデオ」を更新したといえるだろう。

 また、首が折れ曲がった人物の怪しい挙動や、赤い服の女が自室のベランダで謎の動作をしていることを外から目撃してしまう展開など、バラエティ豊かな恐怖表現も楽しめる。とくに白石監督も得意な「ヒトコワ」系のホラー要素も、もちろんふんだんに用意されている。

 しかし最も注目したいのは、本作が数々のフェイクドキュメンタリー映像を繋ぎ合わせ構成された、白石監督の過去作『ノロイ』(2005年)との共通点が多いという点だ。じつは原作者の背筋は、この『ノロイ』が創造性の源泉の一つだと述べているのだ。かつて『ノロイ』に影響を受けた背筋が、より現代風なホラー小説で話題を呼び、それをさらに白石晃士監督が映画化する……。このホラー作品をめぐる創造のサイクルというのは、本作『近畿地方のある場所について』の内容を踏まえれば、より印象深いものになるのではないか。

 なぜなら、もともとこの物語の内容が、「ある場所について」を中心に、形を変えて伝わっていったという経緯を背景にしているからだ。ルキノ・ヴィスコンティ監督が映画化した『山猫』では、「永遠に変わらないためには、変わり続けなければならない」という名言が登場するが、本作では、ある存在が放つメッセージが、怪談や事件の噂、映像メディアやインターネットなど、表現される媒体を移しながら、現代にフィットするように改変されながら伝わり、現代に生き残っているという考え方が、一連の真相として描かれる。

 この悪意の伝播というのは、自分が呪いを受けないために、知人などに「不幸の手紙」や「チェーンメール」をまわす行為にも近い。ホラー文脈では、とくにビデオテープを介して呪いの力を広げていく『リング』シリーズに見られるルールでありシステムを想起させられる。こういった影響力の拡散は、それ以前にも、例えばブードゥー教における死者の使役をヒントに、歩き回る死体が増えていくという、ジョージ・A・ロメロ監督の映画のゾンビだったり、吸血鬼が血を吸うことで眷属を増やしていく、ブラム・ストーカーの『吸血鬼ドラキュラ』や、その関連作にも見られるものだ。

 とくに吸血鬼を題材にした作品では、この拡散性についての考察が早くから進んでいた。『吸血鬼ノスフェラトゥ』(1922年)では、ペストなどの疫病とともに、街に死をもたらす存在として、その脅威が描かれ、フランシス・フォード・コッポラ監督の『ドラキュラ』(1992年)では、吸血鬼が増えていくことでの社会や生態系の変化などについての問題意識が垣間見えた。

 そういう意味において、インターネットを介したバイラルメディアは、これまでになく脅威を拡散することができる場所となる。実際、われわれはSNSを日々目にしながら、ネットミームや刺激的な書き込みなどで、デマや煽動が拡散され、社会に負の影響を及ぼしているところを目の当たりにしている。『近畿地方のある場所について』は、そういう意味で、『吸血鬼ノスフェラトゥ』での吸血鬼が疫病の脅威と重なっていたように、インターネットを媒介して社会や、そこで暮らす人々がダメージを受ける過程をホラーとして表現しているようにも感じられるのである。本作にも登場するカルト宗教の要素などは、まさに現在の問題の典型といえよう。

 そして、その拡散の恐怖は、ある意味で創作における影響や作品論として機能させることもできる。ホラー映画がこれまで描いてきた脅威は、形を変えながら現代にまで生き続け、白石晃士監督の『ノロイ』を経由し、背筋の小説『近畿地方のある場所について』にまで行き着いた。そしてそれは、また白石晃士監督の手によって「映画」という媒体で、さらに大きく拡散される。

 こう考えると、本作はことさら奇をてらった内容ではなく、これまでのホラー作品が描いてきた恐怖を受け継ぎ巧妙にアレンジがおこなわれた作品だということが分かる。それが現代の人々を惹きつけるというのは、この作品で描かれる“ある場所”こと、“恐怖の水源”ともいうべきところから、水脈のように怪談、都市伝説、フォークロアなどに分かれてきたものたちが、現代の時代感覚に合わせチューニングされることで生き残ったことに重ねられる。

 つまりは、この現代風の“アレンジ”によって、古典が噛み砕かれ、時代とともに恐怖の感覚が生き残ってきたことを、本作のストーリーは“構造として”示唆したのだといえる。それはまさに、恐怖の方程式の提示であり、恐怖史の構造の解体だったともいえるだろう。その意味で本作『近畿地方のある場所について』は、現代の恐怖作品として決して無視できない理知的な内容を含む、興味深い映画になったといえるのである。

(文=小野寺系(k.onodera))