「トルコ海峡史」をひもとく日本人の著書 約100年の時を経てトルコで出版 ウクライナ・ロシアの穀物輸出合意にもつながる

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日・トルコ外交関係樹立100周年を記念し、芦田均元首相著の『君府海峡通航制度史論』(1930年出版)が9月にトルコ語で出版された。

9月27日、夕暮れのボスポラス海峡の船上で出版記念式典が開催され、在イスタンブール日本国総領事の笠原謙一氏ら両国の関係者らが出席した。

海峡を中心とする世界通行史や国際政治史を記した一冊

トルコは、内海であるマルマラ海の両端にヨーロッパとアジアを繋ぐ2つの海峡を持つ。西端に位置しエーゲ海と繋がるダーダネルス海峡(正式名称:チャナッカレ海峡)と、東端に位置し黒海に繋がるボスポラス海峡(正式名称:イスタンブール海峡)だ。

本は1930年に出版され、トルコのボスポラス海峡・ダーダネルス海峡の通航制度史と当時の通航制度であったローザンヌ条約の問題点(海峡地帯でのトルコの非武装化、他国による戦闘行為を禁じていないことなど)を中心に、現代までの海峡を中心とする世界通行史や国際政治史が記されている。

1923年にトルコ共和国が建国されると、日本は1924年に外交関係を樹立、翌1925年にはイスタンブールに日本大使館を開設し、芦田氏は初年度大使館員として赴任した。芦田氏はまさに日本とトルコの外交の始まりを現地で実体験した人物である。

芦田氏は在トルコ日本大使館に勤務中、海峡問題について研究し、1929年に学位請求論文「国際法及国際政治ヨリ見タル黒海並ニ君府海峡ノ地位」を書き、この論文で東京帝国大学から法学博士を授与された。そして芦田氏が翌1930年に書籍として出版したのが、今回、トルコ語に翻訳された『君府海峡通航制度史論』である。

「時代の生き証人」トルコ共和国誕生直後に赴任した芦田氏

トルコ語翻訳出版の発起人で編集者でもある、イスタンブール大学水圏科学部教授およびトルコ海洋研究財団ディレクターのバイラム・オズトゥルク氏は、芦田氏は「時代の生き証人」だとし、この本の重要性を強調する。

「芦田先生はロシア革命時のロシアと、トルコ共和国誕生直後のトルコに赴任していた専門家であり、時代の生き証人です。芦田先生が後に首相や外相を歴任されたという事実も、この本のテーマをより興味深いものにしています。
この本の重要性と有効性は今日でも変わらず、トルコ海峡研究への貢献は疑う余地がありません。海峡の保護と主権はトルコにとって重要な問題であり、更なる科学分析と研究が必要です」

また、日本とのコーディネートや翻訳内容のチェックなどを担当した、トルコ海洋研究基金研究者、イスタンブール大学講師の天羽綾郁氏は、今回の翻訳版の出版について芦田氏の孫から寄せられたメッセージの内容について明かしてくれた。

「当基金では、以前から海峡関係の文献を集めていたのですが、この本は2006〜2008年に在イスタンブール総領事を務められた松谷浩尚氏が在任中に紹介してくださいました。非常に興味深い本で、いつかトルコ語に翻訳したいと考えていましたが、今回、日本と外交樹立100周年に合わせて出版することになりました。
芦田氏の孫・下河辺元春さんからも『芦田均は、自著が1世紀近く経ってトルコ語に翻訳され出版されたことを誇りに思うだろう。この本が多くのトルコ人の手に渡り、日本とトルコの友好関係を深める一助となることを願っている』とのメッセージをいただいています」

ロシア・ウクライナの穀物輸出合意で顕著に…トルコ海峡問題の重要性

海峡問題といえば、2022年にロシアがウクライナ侵攻し、黒海を封鎖したため、ウクライナからの海上輸送による穀物輸出が滞った問題がある。その後、ウクライナの穀物輸出はトルコと国連が仲介することでトルコの海峡地帯を経由して再開することができた。

私達もボスポラス海峡の黒海に近い所まで行き、合意後、最初に通過する穀物輸送船を取材したが、丘の上は世界各国の報道関係者でいっぱいだった。

当時、ニュースで頻繁に話題に上っていたのが「モントルー条約」だ。これはトルコ領内のボスポラス海峡、マルマラ海、ダーダネルス海峡の航行に関する規則を定めた条約で、1936年に締結され現在も有効である。

一方で、芦田氏が本を1930年に出版した時には「モントルー条約」はなく、前身となる「ローザンヌ条約」が締結されていたが、芦田氏はその条約の問題点及び改善点が挙げていて、まさに当時の時事問題だったのである。

ローザンヌ条約までのトルコ海峡史・国際関係史

ローザンヌ条約までの海峡史を振り返ると、オスマン帝国は16世紀から共通の敵であるドイツ(神聖ローマ帝国、後にハプスブルク帝国)に対抗するためフランスと同盟を結んでいた。当時、圧倒的な国力を誇っていたオスマン帝国は、伝統的な「非イスラム教徒保護」の恩恵として、フランスに通商上の特権を与えていた。しかし、後に他の西欧諸国にも同様の特権を与えたため18世紀以降、経済的に進出されることになりオスマン帝国は弱体化し主権喪失が進んだ。

不凍港の獲得を目指して南下政策を取っていたロシアとの度重なる戦争で疲弊したオスマン帝国は、ついに1774年、キュチュク=カイナルジャ条約で海峡地帯を含む黒海から地中海までロシア商船の通航を認めざるを得なくなった。これを機に、オスマン帝国は次第に海峡を外国商船に開放するに至るのである。

ロシアは19世紀に、南下政策の一環として黒海からの侵出を目指すことになる。これに対し英仏は、仮にロシアがボスポラス・ダーダネルス両海峡を支配下に置き地中海まで侵出した場合、自国の利益を脅かすものとしてロシアの動きを警戒し、衰退していたオスマン帝国と同盟を結んだ。

また、日本とオスマン帝国にとっても南下政策を推し進めるロシアは共通の敵であり、1905年に日露戦争で日本がロシアのバルチック艦隊に対し勝利をおさめると、オスマン帝国は自国の勝利のように喜んだ。

この敗北で極東での南下政策を阻止されたロシアは矛先を西方に転じ、ボスポラス海峡とイスタンブールの掌握を目指した。

英仏が手のひらを返しロシアの同盟国となると、オスマン帝国はドイツに接近する。こうしてオスマン帝国は第1次世界大戦でドイツ中心の同盟国側で参戦し敗北した。

1920年、オスマン帝国は屈辱的なセーヴル条約に調印する。この条約によりオスマン帝国は海峡地帯の主権を放棄し、帝都イスタンブールを含む海峡地帯が「海峡委員会」による国際管理下におかれただけでなく、オスマン帝国領はアンカラ(のちの首都)とその北部の黒海地方の一部だけを残して連合国諸国に分割された。

こうしてオスマン帝国は、マルマラ海、エーゲ海、地中海沿岸を失い、黒海の一部以外に沿岸を持たない弱小国と化したのである。

「ローザンヌ条約」締結へ

セーヴル条約に反旗を翻し、祖国解放戦争を起こして領土を回復、トルコ共和国を建国して初代大統領となったのがムスタファ・ケマル・アタチュルクだ。彼はトルコの国父として今もトルコ国民の絶大なる敬意を集めているが、芦田氏が在トルコ日本大使館に勤めていたのは、まさにアタチュルク大統領の任期中である。

アタチュルクが名声を得たのも海峡地帯での防衛戦。第1次世界大戦中、英・仏・オーストラリア・ニュージーランド連合軍は、1915年にイスタンブール占領を目標にダーダネルス海峡のガリポリ上陸作戦を行ったが、当時オスマン軍防衛隊の司令官であったアタチュルクに阻止された。この敗戦により、立案者のウィンストン・チャーチル(英)は責任を取って海軍大臣を辞職し、アタチュルクはガリポリの英雄と称された。

1922年スルタン(君主)制が廃止されオスマン帝国は終焉(しゅうえん)。1923年にはトルコ共和国が主権国家として国際的に承認され、新生トルコ政府は、西洋諸国や日本とローザンヌ条約を調印して海峡地帯への主権も回復した。

芦田氏がこの論文を書いたのは、まさにこの激動の政変の最中である。

芦田氏の評価と指摘、将来へのビジョンから学ぶこと

芦田氏は、ローザンヌ条約における通航制度を「近東の局面に大革命を与えた」と評価し、海洋外交への期待を表したが、いくつかの欠陥点も指摘している。具体的には、「海峡の安全のためトルコが武装解除する」と定められているものの、「他国が同地域で攻撃を行うことを禁じていない」ことなどを挙げた。

また、「各国の海峡通航の自由を最大限に保障すべき」、「海峡の非武装地帯を中立化して全加盟国が海峡沿岸国の安全を共同で保障すべき」、「安全な海峡通航保障のためイスタンブールにある国際海峡委員会の権限を国際連盟の下で強化すべき」などと指摘している。

芦田氏は、戦勝国による勢力均衡方式ではなく、国際機関としての国際連盟の下で多国間の政治的協調と自由貿易による経済拡大の展望を見出していた。

その後、トルコも条約の問題点を指摘し、1936年にローザンヌ条約が改正され、海峡地帯における「トルコの再武装」と「トルコの管理権」が明記された現行のモントルー条約が結ばれた。

海峡地帯の管理権がトルコにあったからこそ、2022年ウクライナ産穀物の黒海からの海上輸送問題においてトルコは海峡を管理する国としてロシアとウクライナ間を仲介し、世界に存在感を示すことができたのである。

なお、芦田氏著書のトルコ語に翻訳された本は市販されず、研究者らには別途贈呈されるほか、トルコ海洋研究基金のHPから誰でも無料で読むことができるようになっている。トルコ人は共和国建国時に関心を持っている人が多く、この時代にこのような論文を書いた芦田氏に感嘆しながら、この本を興味深く読むだろう。

オズトゥルク氏も述べているが、海峡条約は普遍では無い。トルコが海峡を安全に守っていくためにもトルコの研究者たちのほか、日本もこの本から多くのことを学び、将来に繋げていって欲しい。
(イスタンブール支局 プロデューサー・土屋とも江)