「江戸時代のリアル」を知りたければ、なぜ「長崎奉行」の「犯科帳」を読むべきなのか

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「犯科帳」と聞いて多くの人がまず思い浮かべるのは、池波正太郎の代表作『鬼平犯科帳』だろう。舞台は江戸、火付盗賊改方長官・長谷川平蔵が主人公の捕物帳だ。

しかし、本作品のタイトルに使われた「犯科帳」とは、じつは江戸ではなく、長崎奉行所による裁きの記録である。江戸時代の裁きの記録で現存しているものは、現在(2020年5月)、たった3点しか確認されていない。その一つが、長崎歴史文化博物館が収蔵する「長崎奉行所関係資料」に含まれている「犯科帳」だ。

「犯科帳」は長崎で起きた犯罪と裁きの記録であるが、その史料的価値は長崎という地方都市の記録にとどまらない。じつは、「犯科帳」こそ江戸社会の実情が凝縮された史料なのだ。

松尾晋一『江戸の犯罪録 長崎奉行「犯科帳」を読む』(10月17日発売)より抜粋・編集してお届けする。

刀傷沙汰、男女問題…「犯科帳」が伝える江戸の実情

犯罪は、その時代、その社会を映す鏡である、と表現されることがある。たとえば科学技術の進歩により、従来とは違う悪質な事件が起きたり、社会の価値観の変化や社会問題の複雑化と関係した事件が見られたりする。こう理解すると、江戸時代の社会、そしてその社会の変化を知る手掛かりとなる情報が「犯科帳」には詰め込まれていると考えることができるだろう。

「犯科帳」には、当時、唯一の海外貿易港であった長崎の土地柄から、抜荷(密貿易)に関する事例が多数載る。しかしそれだけではなく、刃傷沙汰、男女間の問題などのさまざまな事件が確認できる。そこからは、江戸時代の社会の実情やそのなかで生きた当時の人々の様子が浮かび上がってくる。

例えば抜荷の事件を見ることで、当時の人々の知恵がわかることもあれば、社会経済の様相も知ることができる。心中事件では男女が死を選ばざるを得なかった身分制の実態が浮き彫りになる。「犯科帳」に複数回、名前が載る累犯者の罪状や、非人に預けてくれと願う町の姿勢を見ると、社会と罰の関係なども考えさせられる。

このほか海外に漂流して長崎に送還された日本人に関する記載も「犯科帳」には記録されている。当時の日本は自由に海外へ渡ることが許されておらず、帰国を希望しても国を出た理由、そして長崎に辿り着くまでにキリスト教へ傾倒しなかったかなど、取り調べる必要が長崎奉行所にはあった。こうした確認行為も当時の認識では「裁き」とされ、「犯科帳」に記録されている。

今日の理解では犯罪には当たらないので取り上げないが、ロシア皇帝アレクサンドル一世に謁見して結果的には世界一周を果たした津大夫。あるいは、ご存じの方も多いであろうジョン万次郎(中濱萬次郎)。彼らの名前も「犯科帳」には記載されている。江戸時代の社会を知るための実にさまざまな事象が、長崎を舞台に起きていたことを「犯科帳」から知ることができる。

「長崎奉行所」の犯科帳で江戸社会がわかるのか?

「犯科帳」が長崎奉行所の記録であるために、例外的な都市の事例を扱うのか、と考える方がいらっしゃるかもしれない。

たしかに「抜荷」という長崎ならではの犯罪も多く見られる。しかし長崎は日本有数の都市であったので、これから紹介する事例を長崎に限られたものとするのではなく、江戸時代の社会状況を凝縮して映し出したものと見なすのは、十分可能と思われる。

「犯科帳」を繙いていて気づくのは、累犯者が非常に多いことである。そのような視点から新たに「犯科帳」を読み直していくと、別個の事件同士が一つの繋がりを持っていたり、捜査上で新たな事件が露見したり、逃亡者が後日捕まった事例が発見できたりする。

しかしこれら累犯者たちの存在は、従来、ほとんど注目されてこなかった。森永種夫『犯科帳』にしても、安高啓明『新釈犯科帳』にしても、判決記録という史料の性格が影響してか、「犯科帳」に記されている個々の事例を取り扱っているのみであり、かならずしも実際の一つの事件の全貌を復元したとは言いがたいところもある。

そこで本書では、従来とは少し異なった視点から「犯科帳」を分析し、当時の人の思考や動きを読み解いていきたいと思う。そしてそれらの分析を通して、当時の犯罪の実態と、そこから浮かび上がってくる江戸時代という時代のリアルな姿を明らかにしていきたいと思う。

なお、本書では史料をほぼ意訳して描出している。これは「犯科帳」に記された刑罰の申し渡しが、事件に関わった立場ごと(個々の下手人ごと)にその申し渡し理由が記されていることによる。複数犯の場合、関係者すべての記載を照合しなければ事件の全体像は掴みきれない。そのため必要な場合には、一つの事件に関わる複数の記述を著者が一つにまとめていることをご理解頂きたい。

また、個々の事件の詳細を確認したい場合のために、文章中に○○頁と、森永種夫編『長崎奉行所判決記録 犯科帳』(一)〜(十一)、の巻数と頁を示しているので、そちらを参照していただきたい。

この時代には、金、銀、銅(銭)が貨幣として使用された。幕府による公定相場も時期によって違うし、実際の交換比率は日々変動した。江戸中期の公定相場は、1両=60匁〈もんめ〉=銭4000文(1000文=1貫文)である。現在の価値が示せれば読者もイメージしやすいが、近年の金高騰をふまえるとなかなか示しづらいことはご理解いただけるだろう(以下でも金・銀・銅の価格が出てくるが現代の価値は示さない)。また、目安になるモノの価値は時代によって、そしてその変化の大きさはモノでも違う。

例えば日本銀行金融研究所貨幣博物館のホームページの「江戸時代の1両は今のいくら?」を見てみると、米一石(約150キログラム)、大工(23人)の賃金、そばの代金(1杯を16文として約460杯)を1両として計算することができる。ちなみに米5キロを2500円と入力すると1両が7万5000円と出る。大工の賃金を1日あたり1万5000円と入力すると、1両が34万5000円、そば屋のそば1杯1000円と入力すると、40万6000円になる。

では、江戸時代の裁きの仕組みはどんなものだったのか。それについては、国際都市・長崎に残された「犯科帳」から「江戸社会のリアル」を浮かび上がらせる、松尾晋一『江戸の犯罪録 長崎奉行「犯科帳」を読む』(10月17日発売)に詳しく記されている。

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