退屈すぎる定年後に効く言葉…日本が誇る天才が遺した「心に刺さりすぎる名言」

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元伊藤忠商事会長、そして民間人初の中国大使を務めた丹羽宇一郎さん。仕事に生涯を捧げてきた名経営者も85歳を迎え、人生の佳境に差し掛かった。『老いた今だから』では、歳を重ねた今だからこそ見えてきた日々の楽しみ方が書かれている。

※本記事は丹羽宇一郎『老いた今だから』から抜粋・編集したものです。

伊能忠敬の場合

死ぬまで努力を続けて大きな仕事を成し遂げた偉人の言葉には、シニアの底力とでもいうものがにじみ出ていて、二一世紀を生きる私たちを力づけてくれます。

最も有名なのは、我が国初の実測日本地図「大日本沿海輿地全図」を作った伊能忠敬(一七四五〜一八一八)でしょう。

忠敬は、下総国(今の千葉県)佐原村で酒・醤油の醸造業を営む伊能家の婿養子となり、傾いていた家業を立て直すために夢中で働くかたわら、独学で天文学や測量術を学びました。四九歳(満年齢、以下同)で隠居し、翌年、本格的に天文学を学ぶため江戸に出て、一九歳年下の幕府天文方・高橋至時に入門。寝る間を惜しんで天体観測に励みました。

全国の測量を開始したのは五五歳。当時としては完全な老人です。足かけ一七年にわたり一〇回の測量を行いましたが、日本全図の完成前に七三歳で没します。弟子たちが完成させた日本全図は、当時としては群を抜く完成度で、のちに明治陸軍でも資料として使われました。

忠敬が測量を始めたのは幕府に命じられたからではなく、「地球の大きさを知りたい」という夢をかなえるために、緯度一度分の正確な距離を突き止めたかったからです。当時、日本近海に外国船がしばしば現れていたため、「国防のために精密な地図を作る」との名目で幕府に測量を願い出て許可されました。このあたりは、なかなかしたたかです。

しかし、幕府から支給される手当はわずかで、測量行に必要な多額の資金は忠敬が私財を投入して負担しました。伊能家は佐原村の名主でもあり、当主時代の忠敬は、利根川の氾濫、浅間山の大噴火、それにともなう天明の大飢饉の際にも、堤防の修復工事や難民の救済に私財を投じています。

70歳ではまだまだ未熟

忠敬の「生きる指針」が商人としての正直さ・合理主義・謙虚さであったことは、家督を継いだ長男にあてた「伊能家家訓」に表れています(以下、現代語訳)。

一 仮にも人に対して嘘偽りをせず、親に孝行、兄弟仲良く、正直であれ。

二 目上はもちろん目下の人の意見もよく聞き、納得のいく考えは取り入れよ。

三 人に対する敬意と謙譲をもって言動を慎み、けっして人と争いなどせぬように。

これらの「指針」に加えて、年齢にとらわれず心からやりたいことに挑戦して努力を続ける気力、天文や測量のすぐれた技術、したたかな行動力、商家の主として培った統率力、財力があったからこそ、全国測量事業を成就できたのでしょう。

「富嶽三十六景」や「北斎漫画」などで知られる葛飾北斎(一七六〇〜一八四九)は、江戸時代では異例の長寿といえる八八歳で没するまで、何度となく新しい画風に挑戦し、確立させました。七五歳のときに絵師としての気概を記した一文が有名です。

「七〇歳前の作品は取るに足らず、七三歳で生き物の骨格や草木の出生の理をいくらか知ることができた。努力を続ければ八〇歳でますます上達し、九〇歳で奥義をきわめ、一〇〇歳で神妙の域となり、百何十歳に至って描くものの一点一格が生きているようになるだろう。長寿を司る神よ、私のこの努力への言葉が偽りでないことを見ていてください」

臨終の際に北斎は、無念の言葉を遺したといいます。

「天が私をあと一〇年、いや五年生かしてくれれば、真の画工となれたのに……」

生涯をかけて一つの仕事に没頭したのみならず、仕事を通していつまでも成長を続けようとした執念が感じられる言葉です。

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