唯一都電が走る大塚駅周辺の知られざる歴史散歩

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巣鴨村にできた大塚駅

運転席の後ろから、仕切りの窓にかぶりついて前方の景色を眺めるのは愉しい。鉄道ファンにとって、ここは立ち席ながらも“特等席”である。通勤型電車をはじめ、最近では多くの中距離電車もロングシートタイプになってしまったから、車窓をじっくり堪能するのが難しくなったなかで、運転台の後ろではパノラマビューが展開する。

国鉄時代末期の一時、仕切窓の幕を常に下ろして見えなくする悪弊があったが、いまは夜間や地下区間など車内灯の映り込みを防止するとき以外は幕もオープンなので、心ゆくまで景色を楽しめるというものだ。風景だけではない。かつては、運転士がブレーキ弁を絶妙な手さばきで操るのを見るのも楽しみだったのだけれど、いまはレバー操作ひとつで加減速が簡単にできてしまうので、こちらの興趣は少し薄れた。

さて、池袋で運転士が交代し、気分も新たに外回り電車は大塚駅へ向かう。発車してすぐ、電車は下り勾配にかかり、埼京線電車が頭上を乗り越してゆく。当方は右へ、右へとカーブ。切通しの先、はるか前方に東京スカイツリーの姿を認めれば、ほどなく大塚駅である。

1面2線のシンプルな構造の駅で、開業は池袋駅と同じ1903(明治36)年4月1日だ。駅ができた当時の所在地名は北豊島郡巣鴨村といったが、東側に隣接して巣鴨町という別の自治体があったため、「巣鴨」の駅名はそちらに開設された駅がものにした。

では、巣鴨村のほうの駅はどうするか。いまなら「西巣鴨」とでも名乗るのだろうが、持ち出されたのは「大塚」であった。当初、田端と結ぶ「豊島線」を目白から分岐させて北東を指向する線形が検討されたときは、現在の東京メトロ新大塚駅付近に駅を設ける予定だったらしい。新大塚駅は豊島区と文京区の境で、文京区側の住居表示は大塚六丁目。

じつは、「大塚」の地名は文京区内の茗荷谷(みょうがだに)付近にあった“塚”に由来する。やがて、大塚辻町とか大塚××町という呼称が増えて、「大塚」が広い地域に用いられ、これを駅名に借りたのだ。

ちなみに、都電の大塚駅前の北隣りの電停名は「巣鴨新田」で、こちらは昔の地名を継承している。逆に、大塚駅を境に北側を北大塚、南を南大塚とする住居表示は、1969(昭和44)年に豊島区が定めた、大塚駅の存在を前提にした後づけの地名である。

大塚といえば……

1960年代前後の筆者の幼少期、「大塚あ〜、カドマ〜ン」と男性がひと声発する印象的なテレビコマーシャルが流れていた。結婚式場のCMなのだが、式場とおぼしき寺院のようなキッチュな建物が映し出されたと思う。ネット検索してみると、「カドマ〜ン」は「角萬」と書き、寺院らしき建物は京都の金閣寺を模したものだったとか。駅の北口、線路に並行した坂道を池袋方の空蝉(うつせみ)橋方面へ歩いた途中に存在していたようだが、いまや結婚式場の宣伝は影をひそめ、葬祭業のCMばかりがめだつ世の中である。

もうひとつ、大塚駅と聞いて筆者が思い出すのは、1921(大正10)年11月4日に起きた、時の首相、原敬の暗殺事件である。東京駅丸の内南口ホールで衆人環視のなか、首相を短刀でひと突きにした19歳の犯人、中岡艮一(なかおか・こんいち)は、大塚駅の転轍手(てんてつしゅ)だったのだ。転轍手とは、ポイントの切替えを担う現場職員である。大塚駅では1974(昭和49)年まで貨物の取扱いがなされていたから、おそらく入換えが頻繁な貨物線のポイント操作に従事していたのだろう。

当時の新聞では、「下手人」などと古風な言葉で名指しされた中岡は、政治談議が盛んな土佐にルーツをもつ。あの中岡慎太郎とは血縁関係にないものの、明治維新における志士の生き方を手本にしていたといわれる。ただし大塚駅での評判は、暇さえあれば本を読んでいるような温厚な青年だったようだ。その彼が首相暗殺の凶行に及んだのである。

第八代目の東京駅長を務めた杉山吉太郎(在任:1957年2月〜60年2月)は、鉄道省奉職前の鉄道教習所時代に実習生として大塚駅へ派遣され、中岡青年から小荷物扱いの手ほどきを受けたという。中岡を評して、「体が小さく、とても一国の総理を殺すような人物には見えなかった」と語っている。

百貨店もあった大塚

かつて角萬があった、駅から空蝉橋--この橋名は、明治天皇が付近で蝉の抜け殻を多数見つけたことによるという――へ向かう線路沿いの道は上り坂である。つまり、駅周辺は谷端川(やばたがわ;現在は暗渠化)が台地を削った低地になっており、そのため大塚駅は盛り土の上にホームがつくられた高架式で、改札口へは階段やエスカレーターを下りる構造だ。

その“すり鉢の底”状の地形の大塚駅前には、百貨店の白木屋もあった。現在は「コレド日本橋」が建つ場所に本拠を構えていた白木屋は、三越・大丸と肩を並べた老舗呉服店が発祥で、大正末から昭和初期にかけては「分店」と呼ぶ小規模店舗を各所に展開する積極姿勢を見せていた。東京駅前の丸ビル内や関西をはじめ、本稿でも以前紹介した池上電鉄の五反田駅直結の店、あるいは大森・錦糸堀などにも出店していたのである。

大塚駅前の分店もそのひとつで、1929(昭和4)年の開店という。このころ池袋は東上鉄道(現東武東上線)や武蔵野鉄道(現西武池袋線)のターミナル化で発展の途上にあったが、後述するように王子電気軌道(現都電荒川線)が明治末から乗り入れ、料理屋・待合い・芸妓屋の三業を擁するようになった大塚の賑わいは、池袋をしのいでいたのだ。

だが白木屋にとって、女性店員に多数の死者を出した日本橋本店の火災(1932年)や戦禍は経営に味方せず、大塚分店も1945(昭和20)年4月の空襲で被災し、ほどなく閉店。戦後しばらくして別系列のストアーとなったが長つづきせず、白木屋本体もほぼ同時期に東急に買収されて消滅してしまう。

大塚分店の建物は、著名な建築家、石本喜久治の設計だったのだが、のちに事務所ビルに改装されて2017(平成29)年まで使われるも、いまは解体されて姿を消した。駅北口の、右手すぐの線路際にそびえていたのである。

路面電車の走る町

大塚駅の駅舎も、十年あまり前に建て替えられた。従前は南口・北口の双方に改札があったのだが、2013(平成25)年に旧貨物用地を活用して「JR大塚南口ビル」を建設、1階を門型にくりぬいて自由通路とし、改札の位置も変更したので北口へも自由に抜けられるようになった。ビルの上層階には商業施設の「アトレヴィ大塚」や事務所が入る。「ヴィ=vie」とは、生命や生活を意味するフランス語だ。

南口へ出て、まず出会うのが「天祖神社」と彫られた石柱である。揮毫(きごう)は、太平洋戦争終結時の首相、鈴木貫太郎。社殿は駅から少し離れているものの、鎌倉時代末期に巣鴨村の鎮守として創建された由緒ある社だけあって、戦前までの神域は大塚駅前に及んでいたという。

石柱の先では路面電車がゆきかう。都電の荒川線だ。天祖神社の裏をかすめて駅前へ現れた電車は、大塚駅前をゆっくりとよぎり、JR線の高架下に設けられた電停で小休止する。

都内に唯一残る都電荒川線は、昨今「東京さくらトラム」なるモダンな愛称を戴いているが、その歴史は明治にさかのぼる。1911(明治44)年8月に王子電気軌道が、飛鳥山−大塚間の鉄路を開いたのが発端だ。桜で名高い行楽地の飛鳥山と、山手線の駅ができて間もない大塚が結ばれたことで、大塚はターミナルの地位を獲得。天祖神社の宮前町だったことも手伝い、料理屋などが立ち並ぶようになった。前述の三業地の芽生えだ。

王子電軌はその後、三ノ輪橋から王子駅前へ路線を伸ばす一方、飛鳥山から王子駅前へ、あるいは大塚から早稲田、さらには王子駅前−赤羽間の軌道も完成させた。だが、1942(昭和17)年に事業を東京市へ譲渡し、今日の都電となった。赤羽へ至る路線は1972(昭和47)年に廃止されたものの、三ノ輪橋−王子駅前−大塚駅前−早稲田間が生き残ったのである。

南口から都電を横切り、南東へ下る「大塚三業通り」を訪ねてみる。都電との交差部に遮断機はなく、警報音とともに「電車がきます」と注意喚起の信号が灯るだけなのが、人にやさしい感じ。

かつて花街として栄えた三業通りに、昼の人通りは少ない。営業中の飲食店はまばらで、マンションが多い。料亭だったと思われる建物も、庭木がのび放題で哀愁を誘う。ただ、道の途中に建つ胃腸科医院の診療科目の下のほうには、遠慮がちに「性病科」とあった。

池袋駅はかくして「エキブクロ」となった!