「言葉とコミュニケーション」をめぐるエッセイ集『言葉の道具箱』が刊行されました。「群像」好評連載を書籍化した本書、ふだんは学術書や論文を書いている研究者・三木那由他さんにとって「エッセイを書く」というのはどういう感覚なのでしょうか。「群像」11月号掲載の自著紹介エッセイ「本の名刺」を再編集してお届けします。

食レポが下手すぎて

連載「言葉の展望台」が少し前に終了し、これまでに『言葉の展望台』、『言葉の風景、哲学のレンズ』と刊行されてきた単行本のシリーズも、3作目の『言葉の道具箱』でもって完結することとなった。

ちょっと変わった連載だったと思う。この連載ではだいたい毎回ゴットロープ・フレーゲやらジョン・L・オースティンやらといった哲学者に言及しつつ学術的な話をしてもいるが、他方で題材としては、自分自身の身に起こったことや世間での出来事といったものを多く取り上げた。『言葉の道具箱』でも、最初に出てくるのは「食レポが下手すぎてレンコン団子の美味しさをうまく語れない」という話題だ。読者のかたから感想などをいただく機会もあるが、哲学的な議論として読んで「卒論に使いました」というふうに言ってもらうこともあれば、エッセイとして読んで「共感しました」と言ってもらうこともある。なんだか変な本だな、と自分で思ってしまう。

エッセイの連載をしてみないかと打診されたときには、憧れた作家さんたちが名を連ねる場に参加できるという喜びもありつつ、戸惑いも大きかった。なにせこちらは大学院に進学した22歳のころからずっと研究だけをやり、書いたものと言えば論文と共著以外では一冊の学術書くらいという状態だった。「序論」から始めて、「第一節」、「第二節」と議論を積み重ねて「結論」で全体の構成を振り返るような文章の書き方にしか慣れていない。しかも当時の私は、自分の属す分析哲学という分野のなかでも友人からは特に硬い文章を書くと思われていて、「学術論文や学術書以外は書けなそう」と言われていた。直前に単発で掲載されたエッセイを踏まえ、「このひとなら書けるだろう」と判断したうえでの依頼だったのだろうが、私のほうは友人たちに「どうかな? 私、こういうのできるかな?」と相談したりしていた。

けれどその戸惑いが、私にとってはよかったのかもしれない。学術的な書き方しか知らない人間が、どのようにそうでないものを書くのか。哲学の理論や概念を捨てたら、私に語れることはかなり少なくなる。とはいえ、理論や概念をそのまま解説しても仕方ない。結果的に私は、自分の日常でごく当たり前に経験することを語ったうえで、「ではそれを哲学的に語るとどうなるのか」と別の語りかたを提案してみるというスタイルで書くようになった。私自身にとっても、自分がこれまで学び、研究してきたことが、いったい現実のこの世界で生きる具体的な存在である私自身に、どう結びつくのか、改めて考える機会となった。

「語りかたの手札」

哲学は面白い、といまさらながら思う。もちろん、個々の哲学者の議論も面白いし、抽象的な哲学的パズルやそれへの多種多様な回答も面白いものだ。でもそれ以上に、「語りかたの手札」が増えるというのが、私にとってはとても面白く感じる。そのままだとただもやもやするしかない事柄に、いったん哲学の理論や概念を当てはめてみる。そうすると、これまではぼんやりしていたその骨格やら形状やらが見えてきて、「あ、この関節のあたりを摑んでみたら、この現象を捉えられるかもしれない」という感覚が生まれる。私はそれが楽しい。差別的な言動について考える場合など、目を向ける現象自体はあんまり楽しいものでないこともあるけれど。

『言葉の道具箱』でも、そんなふうにして私の知っている哲学の話や言語学の話をあれやこれやと持ってきて、興味を惹いた現象についていろいろな語りかたを試してみている。レンコン団子の美味しさをいかに語るかだとか、大好きな漫画のなかで主人公が何をしているのかだとか、当事者そっちのけで偏った議論が広がるなかでマイノリティとして感じる違和感だとか。取り上げている話題については、楽しい出来事を紹介したかったというものもあれば、とても腹立たしいこと、悲しいことについて、きちんと語らざるを得ないと感じて書いたものもあった。でもいずれにしても、哲学や言語学を持ってくると語りかたが見つかるという面白さは、常にあった。

私はあまり「哲学はどんなひとにとっても生きるうえで必要なものなのだ」とか、「哲学はこの社会に不可欠だ」とか言うほうではない。というか、そもそもあまりそんなふうに思っていない。哲学がほかの学問分野に比べて何かしら特別な分野であるという感覚が薄いのかもしれない。ただ、こうした自分自身での試行錯誤を経て、物事を語るための言葉を与えてくれる意義は強く意識するようになった。

確かに何かがあるはずで、それは自分にとって興味を惹く、場合によってはとても重要な事柄のはずなのに、それをどう語ればいいのかわからない、ということがときに起きる。どこかにそれを語るための言葉がないだろうかと、頭のなかにストックされている哲学のツールを探っていく。うまく見つからないこともあるが、「あれ? これを使ったら語れるじゃない。そう、これこそ私が感じてることだよ!」と思えるときもある。もちろん、哲学でないとそうした言葉を与えてくれないわけではないだろう。実際、私も哲学でなく言語学を参照することも多い。でも、哲学がこのようなツールを与えてくれるというのは確かだ。

連載が続くにつれて、「私は自分のお気に入りの哲学ツールを集めた道具箱を持ち歩いて、いろんなことを語っているのだな」という感覚が強くなっていった。私の書くものを読んだひとが私と同じ道具箱を使う必要はないが、自分用の道具箱を探すためのきっかけくらいにはなれたら、と思う。そして、あなたもまたお気に入りのツールを集めた道具箱を手に、この世界を歩き回り、自分自身の言葉で語り始めてくれたら、私はとても嬉しい。

学問が役に立つとはどういうことだろうか? 川添愛×川原繁人×三木那由他