いとうせいこうの「国境なき医師団」をそれでも見にいく〜戦争とバングラデシュ編(6)

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作家・いとうせいこうは「国境なき医師団(MSF)」の活動に同行し、世界各地の紛争地や災害地等を訪ねてきた。そして今年6月、いとうが訪ねたのは、バングラデシュにある世界一広大なロヒンギャ難民キャンプ。ミャンマーの迫害を逃れた100万人が暮らすそのキャンプで、過酷な体験を経てきた難民たち自身が助けあう姿に希望を見る……。 国際人道支援の最前線を伝える傑作ルポルタージュ「『国境なき医師団』を見にいく」シリーズ最新版、第6回。

前回はこちら⇒【第5回】いとうせいこうの「国境なき医師団」をそれでも見にいく〜戦争とバングラデシュ編(5)

第4章 高潔な人々

というわけで、6月24日の午前中、我々は「丘の上の病院(Hospital on the Hill=HoH)」からひとつ西隣のキャンプ17へと徒歩で向かった。

雨期の名残で小雨が降る中、狭い道にも泥の色をした水路にも、相変わらず子供があふれていた。他に目立つのは犬と鶏で、それら動物たちがTシャツ一枚で下は裸だったりする子供とじゃれている姿は、一瞬牧歌的に見えた。

だが子供の着ているTシャツにかなりの頻度で「ガザを救え」「平和をパレスチナに」と印刷されているのに気づくと、ニコニコとはしていられなかった。物心ついた年齢以上のロヒンギャ難民は決してそれを着ていない。

推測だが、メッセージTシャツを咎められても直接は何も答えようがない幼い子供たちに、親は自分の胸のうちにある言葉を語らせているのだろう。そしてまた、種類の多さからしてメッセージTシャツはあちらこちらで作られ、配られているはずだと思った。つまりそれはロヒンギャ難民キャンプだけにある光景ではなく、世界中のイスラム圏の子供たちが同様に「ガザを救え」「平和をパレスチナに」などと書かれたTシャツを着用しているのではないか。そうなると、世界の見え方が変わってくる。

考え込みながら歩く俺の目の前で、やがて3人の現地スタッフが合流した。男性2人に女性1人でチームを組んだ彼らはみな若く、頭のよさそうな連中で、聞けばロヒンギャ難民であった。彼らはMSFのアウトリーチ・チームに所属しており、担当のキャンプ内をくまなく回って、健康に関する知識を人々に伝えていた。

一緒にくねくねと曲った細い階段をあがり、いかにもスラムといった仮小屋めいた狭い家の間を抜けていく。一番奥に電灯のついていない薄暗い家があって、その前でチームは止まった。細いフレームの丸メガネをかけた好青年がリーダーで、彼が熱をこめて活動について説明をしてくれる。

アウトリーチ・チームは全キャンプで59人おり、もちろん全員がロヒンギャ難民。トップで彼らをまとめるのは4人で、彼もその1人だった。例えばそのキャンプ17には1万9000人の難民がいて、それぞれの世帯を8人のスタッフで回るのだという。活動の名は『ヘルスプロモーション・アウトリーチ』。

月に一回ずつ、そのレポートを印刷物として作るというリーダーはこう言った。

「医療はクリニックに、水や衛生や食糧といった生活のことは各人道支援団体にまかせて、僕らはアドボカシーを担当します」

難民たちに正しい健康情報を伝え、なおかつ彼らにどのような施策が必要かを外部に発信する。アドボカシーとはそういうことだろう。それを難民自身が行っていることに、俺は希望を見た。

ロジアさん一家の過酷な体験

竹で編んだ小屋の中にチームの女性(名前はルバ)がファイルを持って入り、俺たちもそうするようにリーダーに指示された。ゴムのシートを敷いて青いゴザをかぶせた10畳ほどの場所に、黒い衣を着たおばあさんが1人いた。隣に台所でもあるのだろうか、ラッパーのドレイクみたいなヒゲで(というか、ドレイクが彼らのヒゲの慣習にしたがっているのだ)顔の下半分を覆った、がたいのいい息子さんと、その子供だろう、小さくてかわいいやつらが5人、興味津々という表情でこちらをのぞき見ている。

おばあさんはロジア・カーフンといい、C型肝炎を患っていた。ロジアによれば、8人の子供がいたが3人はマレーシアに移動しており、4人はキャンプ内にそれぞれの家族と住んでいるという。今は2人の孫と3人でその家に住んでいるのだという。

いつからC型肝炎なのか聞いてみると、ルバが『ヘルスカード』を出すようにロジアに言ってくれ、そこにある記録によると今年の1月に熱と体の痛みが始まったのだそうだ。以来、隣のキャンプのHoHに通っている。

ヒゲをたっぷりたくわえた息子さんも実は去年発病し、治療して治ったばかりだそうだった。すでに聞いてはいたがC型肝炎の罹患率が高いことのリアリティを俺は感じた。

さらに聞けば、ロジアたちがミャンマーを出たのは多くの難民がそうであるように2017年で、10月に家族10人で川を渡ったのだそうだった。かつてはモラビと呼ばれる宗教的なリーダーだった夫はモスクに勤めており、当時は土地もお金もあった。しかし虐殺が始まって国境を越えざるを得なくなった。

夫は慢性疾患(高血圧や胃腸の病気)を抱え、C型肝炎も陽性であったが、残念ながら70歳以上は物資が限られているため診療を受けられず、手をほどこせずに死亡。また8人の子供の話の時に1人の情報がなかったのは、孫の出産時に亡くなってしまったからだとロジアは言った。その時に生まれたのだという4歳児がちょうどよちよちと部屋の中に入ってきて、おばあさんの足に抱きついたのが切なかった。

そこからの話も過酷なものだった。

数ヵ月前の夜、目出し帽をかぶって銃を持った強盗が家に入ってきたのだという。そして携帯電話を奪い、それだけでなくロジアに銃を持たせて写真を撮り、被害を訴えればこの写真をばらまくぞと脅したのだそうだ。おそらく近所の評判が最も大切な社会なのだろう難民キャンプ内で、その脅迫はきわめて狡猾、かつ有効なものなのに違いなかった。

「ミャンマーには戻りたいですか?」

ルバを通して最後に聞いてみると、

「自由と財産が取り返せるなら」

ロジアはそう答えた。前者ならともかく、後者の願いはもはやかなわないに違いないから、答えはノーと同じだった。

外に出ても雨はやんでおらず、それどころか下の道まで行くと、そこに泥の小川が出来ていた。それでも子供たちは川に入り、元気よく遊んでいた。例のTシャツを着ている子がいるかどうかは、もう泥でわからなかった。

意外な場所で出会った「芸能の発生」

数分歩いたところにある家で、別のチームがアウトリーチをしていると聞き、そこへもお邪魔してみた。

ロジアの家とほぼ同じ間取りの中に、MSFのベストを着た若いメンバーがおり、ビニールで一枚ずつ覆った紙芝居のようなものを、3人の若者と1人の壮年に見せてしゃべっている。俺が見たのは蚊と皮膚の絵で、「デンゲ」という言葉がさかんに出るからデング熱がテーマなのだとわかった。

やはり難民である語り手はすさまじく熱っぽくデングの恐ろしさ、防ぐための方法を語っているらしいのだが、それがどこか独特の名調子を帯びかけるのを俺は感じた。

以前マニラのスラムでも、大勢の聞き手に向かって避妊についての説明をする、おそらくトランスジェンダーの女性を見たのを思い出した。一生懸命に伝えたいことがあり、同じ内容をあちこちで繰り返すからなのか、そこにはうっすら調子が出てきて浪曲のような、講談のような魅力をわずかに帯びるのだ。聞いている側の熱心さもその雰囲気を支えているかもしれない。

ともかく俺は意外な場所で「芸能の発生」めいたものを感じ、言葉もわからないままそのデングではない熱にとりつかれる思いがした。

(第7回へつづく)

いとうせいこうの「国境なき医師団」をそれでも見にいく〜戦争とバングラデシュ編(5)