「このことは誰にも言わないで」…看取り医が驚いた!ペット禁止の市営住宅で捨て犬を飼い始めた、孤独な高齢者に起きた「身体の異変」
茨城県つくば市で訪問診察を続ける『ホームオン・クリニック』院長・平野国美氏は、この地で20年以上、「人生の最期は自宅で迎えたい」という様々な末期患者の終末医療を行ってきた。患者の願いに寄り添ったその姿は、大竹しのぶ主演でドラマ化もされている。
6000人以上の患者とその家族に出会い、2700人以上の最期に立ち会った“看取りの医者”が、人生の最期を迎える人たちを取り巻く、令和のリアルをリポートする――。
人嫌いな高齢女性
82歳の美恵子さんは大きな病気はないが、加齢により廃用症候群が進行していた。要介護1の認定もされている。施設への入所も考えられたが本人の希望もあり、古い市営住宅での独居を選択している。
遠方に住む一人娘に、親の面倒を見る意思はない。かなり以前に関係は断たれていた。美恵子さんが3年前に熱中症で倒れた際、今後について娘さんに相談したところ、「亡くなったら連絡をしてください」とつれない返事をされている。詳しい事情はわからないが、市の担当者からは「30代で離婚したとき、娘さんは父親の元で生活することを選んだ」と聞いている。
ケアマネからは、「彼女は人と馴染めないというか、人嫌いなところがある。スタッフとも挨拶程度の会話しかない。特に自身の過去については一切話したがらない。自殺未遂も1度している」と説明を受けている。
会話を嫌がるため、往診もあっという間に終わってしまう。わがままも、面倒なことも一切いわない。さっさと私たちを帰そうともする。コスパ面のみで考えれば、ありがたい患者さんだともいえるので、本当にひとりが好きで、孤独を楽しめている方であれば、特に気にもしない。
ただ、どこか陰気で寂しそうな表情をしている彼女と接していると、心がギュッと締め付けられる時がある。彼女のまなざしは、老いたとき私自身にも訪れるだろう独居老人の孤独問題を突きつけられているように感じてしまうのだ。
その美恵子さんの部屋に訪問診療でお邪魔するようになって3年になるが、ある時から彼女の表情が明らかに変わった。
その理由に気づいたのは訪問診療している時だった。閉じられた襖の中から
「クーン…」
と犬の鳴き声が聞こえてきたからだ。
高齢者が子犬を飼いだした経緯は
「ワンちゃんがいるの?」
最初、美恵子さんは否定するように首を振ったが、鼻で襖をこじ開けるようにして小さな雑種犬が出てきて、すぐに隠しきれなくなった。柴犬の血が流れていそうな黒い子犬は、私を威嚇するように吠えたのち、美恵子さんのひざ元に飛び込んで、また私を威嚇する。まるで美恵子さんの守り神のようだった。
「名前はなんでいうの?」
「ハル。先生、このことは誰にも言わないで…」
「どうして?」
「この公団住宅、ペット禁止なの知っているでしょう」
なるほど。そういうことか。隠している理由にやっと気づいた。とはいえ私は医者だ。患者の健康が脅かされない限り、団地の問題に首を突っ込む気はない。
ハルに触りたくて鼻先に手の甲を近づけると、歯をむき出しにして軽くうねり出した。私は嫌われたようだ。
「いつから、飼っているの?」
「半年前くらい。産まれたばかりの状態で捨てられて、死にかけていたから、拾ってきた」
「散歩はどうしているの?」
「誰にもみつからないように、夜中に私が連れ出している」
医者が無視できないペットによる劇的変化
美恵子さんをなかなか診察させてくれないハルは、訪問医としては厄介な存在だった。嫉妬か、敵意か――。聴診器を彼女に当てようとすると、膝の上からうねって威嚇してくるからだ。
一方で、夜中の散歩やハルのための買い物や世話が功を奏したのか、廃用症候群の進行が抑えられていた。服用していた薬もいらないかもしれないと思うほど、彼女は健康になった。
性格も丸くなり、社会性を持つようになった。“劇的な変化”と言っていいのかも知れない。嫌がっていたデイサービスにすら自ら通うようになり、管理者も「ずっと誰とも話そうとしなかったのに、最近は機嫌が良くて、みんなと楽しそうに会話をするようになった」と喜んでいる。ペットとの情緒的交流が高齢者の精神的健康に良い影響を及ぼすことは知っていたが、想像以上の効果を目の当たりにしたというわけだ。
ところが不幸が起きてしまう。美恵子さん宅を訪問していた医療従事者にハルが襲い掛かってしまったのである。その“事件”は市営団地の管理者の耳にも入り、美恵子さんはこっそり犬を飼っていることがバレて、強制的に引き剥がされてしまった――。
つづく後編記事「「孫と住むよりペットを飼え」…愛犬を失った、孤独な高齢者に起きた「深刻な変化」と「愛犬のその後」」では、ハルとの生き別れの後に起きた、意外な顛末について、お伝えします。