奇想の拷問具、「鉄の処女」伝説の虚実を暴く! 「聖母マリア」は罪人を抱いたか?

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数々の伝説を生み出し、童話や小説、漫画や映画にも登場する「鉄の処女」。果たしてそれは実際に使用された残酷な拷問具にして処刑具であったのか? 『拷問と処刑の西洋史』の著者・浜本隆志氏が、信頼すべき史資料をもとに実証的に検証します。

「鉄の処女」 奇想の拷問具伝説

「鉄の処女」はローテンブルク「中世犯罪博物館」の入り口近くに置かれ、数ある展示品のなかでももっとも強烈な印象を与えるシンボル的な「目玉」である。顔面は多少崩れているが、一見して「聖母マリア」がイメージされ、マントを羽織っていることがわかる。後で時代考証をするが、これは破損状態からして年代的に古いものに属し、オリジナルであるようにみえる。

「鉄の処女」の使用方法についてはさまざまな伝説があり、グリムの事典をはじめ、ドイツ語辞典の双璧、ドゥーデン、ヴァーリヒの最近の版にも「鉄の処女」の項目が設けられ、そのなかで「処刑具」あるいは「拷問具」という解説がなされている。また現物のヴァリエーションも博物館にいくつか存在し、すべて外見は女性像、とくに「聖母マリア」をイメージしている。後に複製がつくられたが、それを見るとこの装置の機能がよく理解できる。

1985年にイタリアのミラノで不思議な展示会が開催された。ヨーロッパで数百年前に猛威を振るった「異端審問」をテーマにした拷問展示会である。そこで人目を惹いたのが「鉄の処女」の複製だった。外見は「聖母マリア」がマントをまとっているようであるが、マントを開くと上部に鋭い鉄製の棘が仕込まれている。罪人をなかへ閉じ込め、マントを閉じると、鋭い棘が体を突き刺し、とくに両目をも刺すように、照準をあわせていた。したがってこれは拷問具であるとともに、処刑具としてつくられていたとされる。

ミラノの展示品は、ローテンブルクの展示品とは明らかに異なるタイプのものであるが、前者の「拷問具」の方が、伝説にもとづく「鉄の処女」の機能をもっともよく示している。中世以来、「鉄の処女」は好事家の関心を惹いてきたので、関連文献も多く残されており、いくつかのリアリティある伝説を生みだしてきた。

魔女と聖母は女性像の対極に位置づけられ、聖母は「無原罪のお宿り」の奇跡伝説でも有名であるように、純真無垢で、人びとの罪を許し、慈悲をあたえる女性であった。「聖母マリア」は幼子キリストをいつくしんで抱き、人びとを愛し、救済する聖母でありながら、このような手の込んだ処刑の道具が、どうして秘密の法廷で用いられていたのか謎である。

これは評判どおり、ほんとうに残酷な拷問具や処刑具であったのか、あるいは単なる作り話にすぎなかったのであろうか。

本テーマについて、われわれに興味深い資料を提供してくれたのは、ビーレフェルト大学のW・シルト教授による先行研究、『鉄の処女、詩と真実』(『ローテンブルク犯罪博物館叢書第3巻』)である。かれはこの「代物」に関する文献資料を収集し、実物を調査して結論を出している。以下、この研究に依拠して、奇想の拷問具伝説の真偽を探ってみる。

ドイツ、スペイン 「鉄の処女」をめぐる恐るべき伝説

ドイツの小説や伝説のなかには、「鉄の処女」にまつわる記述も少なくない。たとえばゲーテの『鉄の手のゲッツ』、クライストの『ハイルブロンのケートヒェン』、L・ベヒシュタインの『処女のキス』がある。またバーデン゠バーデン、ヴェストファーレン、ヘッセン、カッセル、フルダの各地に、「鉄の処女」にかかわる伝説が残っている。ちなみに童話作家、ベヒシュタイン(1801-60)はシュヴァインフルトの町の伝説を紹介している。

「時は中世の残酷で野蛮なころ、伝説が語るところによると、カルメル派修道院の塔に、両手に鋭い剣をもった「鉄の処女」が立っていたという。そこはカルメル派によって、身の毛もよだつ秘密の処刑が行われたところだ。僧が規律に違反したり、あるいは犯罪者が自白したり、また拷問によって罪を白状して死刑を宣告されたりすると、塔の地下道へ連行される。そしてかれは鉄の処女の像にキスをするよう命ぜられる。

そこで罪人が段を上がって像に近づくと、2本の剣が振り下ろされ、首が切り落とされてしまう。罪人は塔の下の水槽に体ごと落とされるのであるが、時々この水溜池の水が赤く染まると、世間では恐ろしそうにこう語り合う。処女は仕事を終え、処刑された人の魂のために祈りを捧げているのだ、と」。

ベヒシュタインはグリムと並んで著名な童話作家であるが、ここには後期ロマン主義者の好んだ怪奇物語の系譜が展開されている。その影響との関係からか、19世紀以来、ドイツ各地に妖怪伝説や「鉄の処女」伝説が広く伝わっていた。

さてシルト教授は、伝説を解明する手がかりとして、イギリスの作曲家、ロバート・L・ピアサル(1795-1856)の論文を重視している。ピアサルは1835年に「処女のキス」という論文のなかで、「鉄の処女」がスペイン(マドリッド)の異端審問の地下部屋で用いられていたという説を発表した。

この道具は一部木製、一部鉄製で、「聖母マリア」の姿をしており、「もっとも苛酷な拷問の実施」のためにつくられたとする。とくにスペインの異端狩りにおいて、白状しない「罪人」がこの像の前へ引きだされる。マリアは腕を胸の上でクロスに組んでいるが、装置を動かすと腕を広げ、「罪人」を抱きかかえようとする。するとマントの内部が現れて、棘の付いた内側へ「罪人」が入れられる。

マリアはかれを抱きかかえるように体内へ閉じ込める。こうして「罪人」は棘による拷問を受けながら罪の告白を迫られ、やがては死に至る。スペインでは拷問具の足元に、深い穴が掘られており、死亡した「罪人」を足元の蓋から、下へ落下させるような仕組みになっていた。このモティーフは、ドイツの「鉄の処女」伝説にも常に継承されている。

ピアサルによると、マリアをイメージした拷問具が神聖ローマ帝国皇帝のカール5世によって、1533年にドイツのニュルンベルクへ運ばれたという。その根拠としてピアサルが挙げているのが、神聖ローマ帝国皇帝は、カルロス1世としてスペイン王をも兼任(在位1516-56)して統治していたという事実と、ドイツ国内ではプロテスタントと対決していたので、異端や処刑にも関心があるはずであるという推理である。なお法的背景として、異端に対する拷問を容認した「カロリーナ法」が、ドイツでも1532年から適用されており、たしかにニュルンベルクに異端審問所が存在したのは間違いない。

「鉄の処女」がスペインの異端狩りに使用されていたとする説は、さらにフレデリック・ショーベール(1775-1853)によって1842年に述べられている。これは、19世紀のはじめ、フランスのナポレオン軍のラサール将軍(1775-1809)が、スペインを占領したときの伝聞の記録である。ショーベールは、スペインのトレドにおける異端審問所の建物内に置かれていたこの装置について、次のように述べている。

「地下の丸天井のなかに、……僧によって製作された、木製の『聖母マリア』を彫った立像があった。頭は黄金の光背に包まれ、右手に旗を握っていた。マリアは肩から左右に大きな『ひだ』のあるマントをたらし、一種の胸甲を着けていたので、われわれすべては見た瞬間、奇妙に思えた。さらに近づいてみると、体の前面に尖った釘と鋭利な細い剣がぎっしり付き、見る者にその先を突きつけていた。……

異端や神、あるいは聖者の冒瀆の咎で訴えられ、罪を告白することをかたくなに拒否する輩は、この地下室へ連行される。……像の向かいの黒色でおおわれた小さな祭壇の前で、罪人がサクラメントを受ける。2人の聖職者が厳粛な表情をして、聖母の目の前で告白をするように勧めてこういう。『見よ、なんと慈悲深く聖なるマリア様がおまえに腕を広げていることか。その胸によってお前の頑ななこころを和らげてくださるであろう。お前はそこで告白をしたいであろう』。

すると突然、マリア像は広げた腕を上げはじめ、像の前で取り押さえられていた罪人は、マリアの腕のなかへ連れていかれる。ますます接近し、その胸に押し付けられ、釘と剣によって罪人の胸は刺されるのである」(W・シルト『鉄の処女、詩と真実』)。

先述したように、スペインのトレドではレコンキスタ以降、国王がムーア人とユダヤ人に改宗を迫ったので、異端狩りが多発したが、異端審問の歴史から、このような話が生みだされたのは想像に難くない。ただしこれは伝聞、うわさの域を出るものではなく、確固たる証拠があるわけではない。

さて、カール5世によってスペインからニュルンベルクへ移されたという「鉄の処女」の行方について、さらに2人の人物が論及している。1人はアルトドルフの法学教授のヨハン・C・ジーベンケースである。かれは1793年の『ニュルンベルク史資料』のなかで、ニュルンベルク城内に「鉄の処女」があったという説を紹介し、およそこう述べている。

この装置は「あわれな罪人を魚に供するものと呼ばれた。というのも『蛙の塔』のなかに、2.1メートルの高さの像が、両腕を広げていた。処刑人が踏み台に触れると、サーベルで罪人を切り刻み、肉片は水のなかに棲む魚が飲みこむ。その装置はいくつかの町にあった」というが、ジーベンケースは出典を明らかにしていないので、信憑性については疑問が残る。

次にもう1人のP・Eというイニシャルの人物が、1834年ニュルンベルク発行の『ドイツ中世学雑誌』に「鉄の処女」について報告している。著者はニュルンベルク城の「蛙の塔」内の地下にあった「鉄の処女」を調べたが、もうこの時には現物がなくなっていた。それはオーストリアのシュタイアーマルクのファイシュトリッツ城に移されていたという。

「鉄の処女」を求めて

イギリス人のピアサルは、スペインからニュルンベルクへ搬送された「鉄の処女」を探索するために、1832-34年にドイツ旅行を行った。かれはニュルンベルク城の「鉄の処女」について、1838年にオックスフォードの雑誌『考古学』のなかに、およそ以下のような調査結果を載せている。

ピアサルが塔内の旗格納室を通って下へ降りていくと、秘密の処刑部屋があった。丸天井の部屋で、床に穴が空いているのが見つかった。しかし部屋には「鉄の処女」はなく、側壁には4つの小さな穴があり、この横に足枷台が残っている。床の穴は、さらに下につくられた秘密の丸天井部屋とつながっており、そこはどうやら死体処理場であったらしい。下は運河につながる水路となっていた。

ピアサルは調査した様子を下の図のようにスケッチしている。

これが事実を描いているのであれば、図からも明らかであるように、穴の上には「鉄の処女」が置かれていたことになり、側壁の穴もそれを固定するものであったと推測される。下には鉄製の死体受けがあって、重りを持ち上げると死体が下の運河に流れるという構造である。おまけに側溝には頭蓋骨や肢体の骨まで描かれている。

ピアサルはさらに、ニュルンベルクの「鉄の処女」の行方を探し求め、この帝国都市からオーストリアへ足を延ばした。かれはシュタイアーマルクのファイシュトリッツ城内で、同種類とおぼしき「鉄の処女」を発見した。所有者はフォン・ディートリヒ男爵で、フランス革命時に現物をニュルンベルクから購入したが、傷みが激しかったので修復・改造したという。

ピアサルのスケッチによると、「鉄の処女」は人間を痛めつけるため、きわめて合理的な構造になっている。これはすべて鉄製で、観音開きになっており、開けると右胸あたりに13本の尖った鉄製の棘が、左胸に8本、頭部の目に相当する箇所に2本付けられている。なかへ閉じ込められた者は、それによって体を突き刺されてしまう。

底板には半径にそって8本の溝が彫ってあり、中央部に穴が空けられているので、溝は処刑された者の血液流出孔であるという。かれのコメントによると、そこには血痕まで付着しており、それが実際、以前に処刑用に使用されていた証拠だとしている。

それは真実か

たしかにファイシュトリッツ城の「鉄の処女」には腕がなく、スペインの異端審問所に設置されていた現物とは異なるものであることがわかるが、問題はピアサルの報告が真実かどうかである。かれをはじめ好事家は、これが拷問・処刑具であるという先入観から現地調査を行っているのではないかという疑念は拭いきれない。

すなわちかれの報告には、処刑具としての「鉄の処女」伝説を実証しようとする作為が強く感じられ、とくにニュルンベルクの「蛙の塔」の「鉄の処女」設置跡は、かれの想像図らしく非現実的である。またファイシュトリッツ城の現物についても、所有者のディートリヒ男爵が、朽ちていたので手を加えて修復したと述べているにもかかわらず、ピアサルのいうように、血痕が本当に目に見えるかたちで確認できたであろうか。ピアサルの報告は、フィクションが加えられており、信憑性が薄いと判断せざるをえない。

(『拷問と処刑の西洋史』より)

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