80年代の「オメガトライブ」は「そろそろ潮時」で解散…杉山清貴が移住先で受けた「スタジオにショットガン」の衝撃
3月から5月にかけて開催された「杉山清貴&オメガトライブ ファイナルツアー」を終えた杉山清貴(65)。1980年代のシティポップを牽引した一組でもあるだけに、彼らのサウンドを心待ちにしていたファンが会場を埋めた。もちろん杉山もまた、このメンバーで演奏することの心地よさを改めて実感したという。
とはいえ、杉山清貴&オメガトライブは80年代の活動期間がわずか3年足らず。鮮烈な印象を残したゆえに、その短さを意外に思う人も多いだろう。杉山のロングインタビュー第1回では、デビュー前からオメガトライブ時代、米国移住までを振り返る。
(全2回の第1回)
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コンテスト入賞もデビューにつながらず
オメガトライブとなる前のバンド「きゅうてぃぱんちょす」時代に、杉山らは「ヤマハポピュラーソングコンテスト」(ポプコン)に3期連続で出場した実績を持つ。
1980年には入賞を果たしたがプロデビューにつながらず、「ライブをやっていくしかない」と、渋谷や新宿周辺のライブハウスを巡り、活動を続けていた。
「いかんせん(デビューの)決め手になるような楽曲がなかった。売れる曲を書こうというよりは、やりたい曲をやっていたので」(杉山、以下同)
「この曲なら」という手応えのある曲を作り、「ビクター・オリジナルソングコンテスト」にもバンド名を変えて出場し、賞を獲得した。「これなら、という曲は作ったけれども、やっぱりそれでも弱かったのかな」と感じる一方で、藤田浩一が設立した音楽プロダクション「トライアングル・プロダクション」サイドから持ち込まれた、オメガトライブでのデビューの話が進んでいたという。
自分たちを出せるのはライブ
杉山清貴&オメガトライブは1983年4月、シングル「SUMMER SUSPICION」でデビュー。1985年末の解散まで3年足らずという短い活動期間に、シングル7作とオリジナルアルバム5作をリリースし、人気を博した。
「オメガの曲は、自分たちがやりたい世界だった。自分で作れたらああいう曲が欲しかった」と杉山。藤田がプロデュースし、シングルA面の7曲は全て康珍化作詞、林哲司作曲で世界観が作り上げられていた。
「メンバーも(その世界観に)いいじゃん、いいじゃんと納得していたんだと思います。『SUMMER SUSPICION』も洒落たAOR(アダルト・オリエンタル・ロック)。ボズ・スキャッグスのようなAORをやりたいと思っていたし、嗜好は合っていた」
そのこととは裏腹に「楽曲に対する信頼感はあった一方で、自分たちを出せるのはライブだと思っていた」ともいう。というのも、レコーディングにおいて杉山のボーカル以外のメンバーは関わっていなかったため、「ライブが自分たちの仕事。時間はかかるけれどきっちりと練習して。ライブバンドとしての矜持は死守した」と振り返る。
「確かに僕らが作ってた曲より難しく、ややこしい曲は多かった。けれどライブで魅せられるのは嬉しいことだった」
当然、当時のレコードでのサウンドとライブでの生演奏には違いがあった。
「レコーディングのボーカルテイクには、藤田さんの指導があるんですよね。『こういう風に歌うとこういう風になるんだ』と納得できたものは、ライブでもそのまま歌うんですが、もともと僕らはロックバンド。レコーディングではファルセット(裏声)を使ったような曲でも、自分のスタイルで歌い、声を張っていた」
そのぶつけるような歌い方に「最初はお客さんも違和感があったと思いますけどね」とも付け加える。
ソロの自分を想像できなかった
結果的に3年弱となったオメガトライブとしての活動。「メンバーのみんなで何となく年月を重ねていくうちに」バンドを解散する話が誰からともなく出てきたと振り返る。
杉山自身も「人の楽曲でおいしい思いはしたけれど、アルバムの中で数曲を書いたとしてもアレンジは別の人。それではやはりバンドとしての色が出せない」という思いを抱えていた。
「このまま林さんの楽曲で行って。時代が変わってヒットパターンが変わったらどうなのかな。ぼちぼち潮時かなと」
当時の杉山らは20代半ば。「今やっている音楽じゃないものをやりたいのなら、今のうちに形にしておいた方がいい」「30歳になるまでに何かしら形にしておきたい」という考えは強まっていく一方だった。
杉山自身は「バンドが好きでバンドがやりたくて音楽をやっていた。自分の作品を発表したいという気持ちも全くなく、バンドの中で楽しくやれればいいかな」という考えもあり、解散後は別のバンドをつくろうかなというノリでいた。だからこそ、ソロデビューの話には「慌てた」という。
「ソロアーティストという感覚自体が分からなくて。1人で何かをやるということが想像できなかった」
米ロサンゼルスに「住むしかない」
ソロではデビュー曲の「さよならのオーシャン」をはじめ、自身でシングル曲を書くことになったが、オメガトライブ時代に「がんばって曲を書いててよかった」という。
オメガトライブのオリジナルアルバムの4枚目「ANOTHER SUMMER」では2曲、最後のアルバム「FIRST FINALE」では3曲、杉山作曲の曲が収録された。「プレッシャーはあったけど、楽曲の作り手としても認めてもらえてるんだな、と感じていた」という。
「(当時の曲は)もう林さんの見様見真似。ギターを弾きながらコード進行はこうなのか、とか思って。その中から吸収していったものをこういう風に書けばいいかな、というものを形にしました」
ソロデビュー以降は、当時好きだったアーティストや洋楽のニュアンスも交えたような曲もどんどん書けるようになっていった。
1989年、アレンジャーの新川博の紹介で、米ロサンゼルスでレコーディングを初めて行った。翌年には米キーボードプレーヤーでアレンジャーのトム・キーンに直接連絡を取って、レコーディングのためロスに赴いた。「好きな音楽があるロスに住んじゃおうかな」という考えはすぐに「住むしかない」と変わり、弁護士を紹介してもらってグリーンカードを申請、取得することができた。
しかし1992年春にはロサンゼルス暴動が起き、ロスは騒然とした雰囲気に。暴動後のレコーディングスタジオにはショットガンが置かれるようになるなど、杉山は世の中の流れが変わったことを実感していた。
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ソロアーティストとなり、米国で時代の流れを感じた杉山。第2回【「今年65歳だし」「いいんじゃない?」LINEで決まった「杉山清貴&オメガトライブ」2024年ツアー 先に広がる無限の可能性とは】では、復活した杉山清貴&オメガトライブや、そこで当時の楽曲以外は演奏しないと決めた理由などについて語っている。
デイリー新潮編集部