前回:「キャリアに迷って…」28歳女性が、難解な社内公募に挑戦。影で支えるありがたすぎる彼の存在とは…



『We regret to inform you that unfortunately we are unable to offer you the position this time.(残念ながら今回、あなたは不採用となったことをお知らせします)』

― ダメ、だった。

試験を受けてから3日後、木曜日の朝9時半。出社してすぐ起動したPCで朝一番に開いてしまったメールは、拝啓的な前置きも、あなたのこれからのご活躍を祈ります的な結びの文章もない、至極あっさりとしたシンプルな不採用通知だった。

合否は1週間後にはお伝えできると思いますと言われていたので、今日の通知は予定より随分早い。確かに人事部署からのメールではあったけれど、件名には社内連絡的な要素しか書かれておらず、何の覚悟もなく何気なく開いてしまった。

クレアは既に知っているのだろうかとその席の方を見て、そうだ彼女は今日、出張だったと思い出す。

すみませんと声がして振り返ると、入社3年目の後輩、角田さんだった。急遽13時までにと和訳を頼まれたんですが自信がなくて…と困り顔でタブレットを差し出される。

それは本社から届いた新薬リリースについての詳細が書かれた英文書類だった。確かにこの量はあと3時間じゃ…と彼女に頼んだ主を聞いてみると、無茶ぶりで有名な男性社員で私は角田さんに同情した。

幸い私には急ぎの仕事はない。

手伝えるよとその書類の後半を引き受けることにして、英文を日本語に変えていくうちにじわじわと…どこからともなく不採用の実感がこみ上げてきてしまう。

ダメだ、集中しないと。私はリアルに首を横にふることでその邪念を払い続け、なんとか13時までに英訳を終わらせ、ランチに出ることにした。

会社のすぐそばにあるイタリアンカフェ。いつものランチプレートを頼んでから、報告をしないと…と重い気持ちで携帯を取り出す。

愛さん、雄大さん、大輝くんとのLINEグループ。そしてトモさんとスクールの先生。クレアには、明日直接伝えよう。

テストダメでした!でも挑戦できて良かったし、元々合格は難しいと言われていたからこの結果は想定内です…!と、極力明るい文章を打ち、応援への感謝を綴り、送信ボタンを押した瞬間。

― …え…?ダメだ。ちょっと待って、ダメ。


慌ててトイレに駆け込む。個室に入り鍵をかけた瞬間、嗚咽がこみ上げ、涙があふれた。でも悲しいわけじゃない。悔しい。自分の実力不足に腹が立ち、そして。

― 誰が、合格したんだろう。

私の他に社内から5人程が試験を受けたと聞いていた。合格した人がうらやましい、妬ましい。ドロドロと苦い感情で喉と胸が熱くなるという初めての感覚に戸惑い、涙は余計に止まらなくなった。



「宝ちゃん、ほんっとお疲れさま。とにかくよく頑張った…!」

愛さんにギュウっとされて、うっかりまた涙腺が緩みそうになる。

宝ちゃんのシャンパンがこぼれるぞ、という雄大さんの冷静な突っ込みに、大輝くんが笑いながら、抱きしめられながら持っていた私のシャンパングラスを受け取り、テーブルに置いてくれた。

私が不合格のメールを受け取ってからすでに一週間が経ち、今日は金曜の夜。ここは青山グランドホテルのスイートルームなのだけれど。

久しぶりに4人で飲める〜と愛さんが、私のお疲れ様会としてこの場所をセッティングしてくれたのだ。

雄大さんが友人のシェフに頼んでくれたという、和食とフレンチのケータリングがテーブルの上に並び、シャンパンやワインも持ち込んでくれたらしい。

「いつかここで、やり直しさせてもらいたいってずっと思ってたんだよね。あの時、宝ちゃんの誕生日を台無しにしちゃったから」

ごめんねと頭を下げてくれた愛さんに、そんなことないです、こちらこそ本当にごめんなさいと謝り返す。

去年の私の誕生日パーティの会場としてセッティングされていたこの部屋に、愛さんと一緒に来ることはできなかった。愛さんと元ご主人の間に私が介入し、事態を悪化させてしまったあの日のことを思い出すと今でもとても申し訳ない気持ちになる。

「あの時は雄大さんも相当激しく宝ちゃんを責めたよね」

茶化した口調で大輝くんが雄大さんを見た。

「なんだったっけ…。悪気があろうがなかろうが失態は失態?悪気がない方がタチが悪いとかも言ってた気がする」

愛さんが、そうなの?と驚いて、そうなんだよ〜と大輝くんがわざとらしく困った表情を作る。

「……そのことについては、もう宝ちゃんに謝ったし、和解済み」

ね、宝ちゃん?と、シャンパンを口にしながら私を見た雄大さんに頷くと、愛さんと大輝くんが、雄大が!?宝ちゃんに謝ったの!?と声をそろえて驚いている。

確かあれは、Sneetで光江さんと初めて会った日。愛さんが光江さんに相談をしている間、カウンターで初めて雄大さんと2人きりになり(大輝くんは京子さんに呼ばれて出て行ってしまったから)、その時に。

「オレも愛も、宝ちゃんをひどい言葉で傷つけた。ごめん」

雄大さんに頭を下げられ驚き、恐縮してしまったのだ。でも。

「雄大さんに怒られたからこそ、私の幼さとか正義だと勘違いした思いあがりとか…それによって迷惑をかけてしまう怖さを知ることができました…怒ってもらえて、学ばせてもらったと思ってます」

ありがとうございます、と改めて私が自分の思いを伝えると、雄大さんは、少しの沈黙の後、言った。

「俺の方こそ今は…宝ちゃんから学ばせてもらったこともあると思ってるよ」

思いもよらない言葉に、驚いたのは私だけではなかったようで。

「…雄大?…どうした、の?」
「雄大さんが、誰かから学ぶ、とか…大丈夫?」

愛さんと大輝くんは驚きを超えて、最早心配そうだ。そんな2人の視線を振り払うように咳払いししてから雄大さんは続けた。

「今日までの宝ちゃんを見てきて…宝ちゃんが自分の正義に基づいて声を上げるのはいつも誰かのためで、自己防衛じゃないっていうのは理解したし…それが効果的に機能する時もあることも知ったから。実際タケルくんは、宝ちゃんのその正義に救われた。あとは…」
「オレも、ね」

雄大さんの視線を受けた大輝くんの反応に、私もでしょ?と、愛さんがほほ笑んだ。

「タケルの本心を知ることができたのは、まぎれもなく宝ちゃんのおかげだから。そうなるまで我が子の気持ちを理解できていなかったなんて、今思っても母親として情けなさすぎるけど」

そんなことないです、と慌てて否定する。そもそもタケルくんと話ができたのは、大輝くんが大輝くんのお父さんに頼んで根回ししてくれたから。

私1人では何もできなかったんですから…と、居たたまれなくなりそう言うと、雄大さんが、まあね、とにやりとした。

「もちろん、宝ちゃんには今もイラっとすることあるから、安心して」

それは安心していいことなのですか…?聞く前に、大輝くんが、ああよかった、雄大さんが通常運転に戻ったと笑って続けた。

「雄大さんが折れるというか…デレるなんて気持ち悪いから。あ、でも愛さんの前では結構デレたりするわけ?」
「…は?」
「ねえ愛さん、雄大さんってデレるとどうなるの?」

確かに、2人はかつて恋人同士だったのだから、愛さんは私たちの知らない雄大さんの顔を知っているのだろう。

興味津々で愛さんの返事を待っていると、なぜか愛さんはどんどん赤面し、大輝くんがニヤニヤとそれを見つめている。

「…大輝…どういうつもり…?」
「どういうつもり、って何が?」

大輝くんは、そのにやけ顔を今度は雄大さんに向けた。

「ね?雄大さん。愛さんの前でデレたりする?」
「…大輝、お前…」

雄大さんのテンションは一気に氷点下になった気がするし、愛さんは顔が熱いとばかりにパタパタと自分の顔をあおいで挙動不審だ。

状況が見えないままキョロキョロとみんなの顔を見渡していると、大輝くんが立ち上がって私に微笑んだ。

「宝ちゃん、2人でルーフトップBARに行こ」
「え?」
「ということで、オレと宝ちゃんはしばらく部屋を出ます。雄大さん、せっかくこの部屋に来たわけだからさ。なんであんなに宝ちゃんに怒ったのか、思い出してみたら?ぜーんぶ愛さんのためでしょ?」

は?と睨んだ雄大さんに構わず大輝くんは続けた。

「そろそろ素直になっておかないと。絶対後悔するよ」

絶句した雄大さんなんて初めて見る。でもそんなレアすぎる雄大さんを全くきにとめる様子のない大輝くんに、宝ちゃんいこ、ともう一度促されて、私は状況を理解しきれぬまま立ち上がる。とりあえず今は大輝くんに従った方が良さそうだ。

「愛さん、話が終わったら連絡して?ただし、今日は宝ちゃんのお疲れ様会ってことを忘れないでね?イチャイチャし過ぎは禁止です」

ドアの前で振り返り、得意のウィンクと共に発された大輝くんのその言葉に、ちょっと待って!と愛さんが大きな声を出したけれど。大輝くんは一向に構わず本当に楽しそうに、私の手を引いて歩き出した。




「風が気持ちいいね」

ルーフトップBARのテラス席に案内されながら大輝くんが言った。もうすぐ8月。うんざりとする連日の暑さを思えば、確かに今夜は随分涼しい。

まるでジャングルのような…植物に囲まれた2人がけのソファーに並んで座り、私はスイカを使ったカクテルを選び、大輝くんはモヒートを注文した。

そして、少し長くなるけど、宝ちゃんになら話しても大丈夫だと思うから、と2人きりにしたワケを聞いてくれる?と言った。

「オレが愛さんと出会ったのは雄大さんに紹介された5年前だけど、雄大さんと愛さんはもっと昔からで。知り合ってから10年以上は経ってると思う。愛さんが結婚したばっかりの頃に出会ったとか…それくらいじゃないかな。

2人が恋人同士になったのは愛さんが離婚してからだけど、もしかしたら…雄大さんの方が先に愛さんを好きになったのかもしれない。でも雄大さんは、人妻とわかっていて恋を仕掛ける人じゃないし、相手に迷惑がかかると思えば、自分の思いは封じ込めちゃう人だから」

オレとは違ってねと大輝くんは笑った。

「あの2人が付き合ってた期間は2年くらいで。別れを切り出したのは愛さんらしいんだけど、雄大さんにとって愛さんは…別れてからも変わらず、特別で唯一の存在だったんだと思うんだよね。

あの日、宝ちゃんのことをひどく怒ったのも、愛さんへの思いが強い故で。オレ、あの人が他人のことであんなにムキになるのって、愛さんのこと以外で知らないもん」

それで…ここからの話は、オレもこの前愛さんから聞いたばっかりなんだけどさ、と大輝くんが続けた。

「最近、愛さんの気持ちに変化が起きみたいで、そのきっかけが、元旦那さんとの交渉に決着がついたことらしいんだ。

タケルくんとの面会が定期的にできることになって、元旦那さんとも和解というか、今後一切お互いに干渉しない、攻撃しないということをお互いの弁護士を通してきちんと文書化できたらしい」




まあ干渉も攻撃もしてたのは向こうだけだけど、という大輝くんの説明に、私は喜びがこみ上げる。

それってつまり、愛さんはもう、元旦那さんからのいやがらせを受けずに、タケルくんと会えるってこと?と聞くと、大輝くんが頷いてくれた。

「…よかった…ホントによかった」

本当によかったよね、とほほ笑む大輝くんと安堵感を共有しているような、幸せな気持ちになった。

「決着がついたのが、ちょうど先月くらいで。そもそもの問題が起こったのが宝ちゃんの誕生日…12月3日だったでしょ?それからすぐに雄大さんが弁護士を立ててるから、半年くらいは話し合ってたのかな。

その話し合いの間、雄大さんはずっと愛さんに寄り添ってた。雄大さんって優しいんだよね。言葉が強くて口数も少ないから誤解されやすいけど、すごく優しい」

確かに最初は私も雄大さんが怖かった。でも今は…本当の優しさとは、もしかしたら随分わかりにくい形をしているのではないかと、雄大さんを見ていると思うことがしばしばあるのだ。

「別れを切り出したのは、愛さんかららしいんだけど、その頃、愛さんに対する元旦那さんの攻撃がひどくなってたみたいで。

愛さんはタケルくんのことを何より優先して守りたいのに、それがうまくいかないことで落ち込んでイライラして。そんな自分といても雄大さんに迷惑をかけてしまうだけ、と思ったからなんだって。

雄大さんは反論することもなく、すんなり承諾してくれたらしいんだよね。それがすごく雄大さんらしいなあって思う。元旦那さんがタケルくんを奪うために…男にだらしない母親には子どもを任せられない的なことも仕掛けてたみたいだから、自分の存在が愛さんの幸せを邪魔になるかも…って身を引いたんじゃないかな。

お互いを嫌いになって別れたわけじゃないっていうのは、今の2人を見てもよくわかるよね」
「…タイミング…ってやつかな」
「愛さんもタイミングが…っていってたけど、オレはタイミングというよりは、あの2人はお互いを思い過ぎてたんだろうなぁって思う。相手を尊重しすぎることで恋が終わることもあると思うから」
「…難しいなぁ…」

でもそれがさ、と大輝くんは言った。

「タイミングというものがあるのなら、またその時が巡ってきたのかもしれない。愛さんは、この半年自分に寄り添ってくれていた雄大さんに、思いが溢れてきちゃったんだって。

無理やり抑え込んでフタをしてた…諦めた思いが、元旦那さんとの決着がついたことで自由になった。やっぱりすごく雄大さんのことが好きで、友情ではなく恋として一緒に過ごしたいっていう気持ちがね。

その気持ちを伝えたい、でも今更なんて言えばいいのか…的に悩んでたからさ」
「だから2人きりに?」
「愛さんのあの感じだと、雄大さんを告白のために呼び出すなんてことはできそうになかったし、それなら今日がいいチャンスだと思って。愛さんに告白の機会を強引に…って感じ」

宝ちゃんの会なのにごめんねと言った大輝くんに私は首を横に振ったけれど…その告白がこじれたら、2人の友情が壊れてしまう可能性もあるのではないかと心配になった。

そんな私の心を読んだように、大輝くんは大丈夫だよ、と笑った。

「愛さんが雄大さんにとって唯一無二の特別な人であることは間違いないから。愛さんが告白して、たとえそれがうまくいかなかったとしても、それで関係が途絶えてしまうようなやわな関係じゃない。

助けたり助けられたり。守ったり守られたり。一緒に笑って泣いて、自分の欲より相手の幸せを優先して動く。そんな風にお互いを思い合える関係は稀有だし尊いよね。その関係をたとえ恋と呼べないとしても、それくらいじゃあの2人の絆は切れたりしないよ」

きっとそうだ。最初の別れが、お互いを想いあうが故の優しい別れだったのだから。相手を尊重し合う2人の絆はこの先どんな形になろうとも…永遠に続いていくのかもしれないなと、私も思った。


愛さんと雄大さんの話し合いを待つ間、大輝くんと私は、試験勉強であまり会えなかった間のことを報告し合った。

大輝くんは、もうすぐ脚本を一本書き上げるから、書き上げたら読んで欲しいと言ってくれた。

大輝くんが脚本家を目指しているという話は、エリックさんに連れ去られた夜…エリックさんの言葉で知ったのだけど、私は試験勉強、そして大輝くんは大きな賞へのチャレンジを、お互い頑張ろうとコーヒーやスイーツのeチケットを送り合ったりしていたのだ。

「なんかオレたちって、今、必死でいいよね」
「必死、かな?」
「宝ちゃんも必死で試験受けたでしょ?オレも賞に挑戦するし、愛さんは恋をやり直そうと今まさに必死な最中でしょ?」

オレはもうすぐ26で、宝ちゃんは29、愛さんは35歳だったっけ?と大輝くんは笑った。

「結構立派な大人になっちゃうとさ。なりふり構わず欲しいものに向かうって勇気いるし、怖いよね。そんな夢物語…ってバカにされることもあるし。でもオレたちは必死なお互いを応援し合えてる。それって結構よくない?」

宝ちゃんは、試験に挑戦してみてどうだった?と清々しく聞かれて、胸がざわつく。宝ちゃん?ともう一度促されて、私は正直に答えることにした。

「どうだったか、って聞かれると、すっきりはしてない、かな」

実は、不合格通知を受け取ったあの日から。ずっと後ろめたいような、じくじくした気持ちが抜け落ちず、自分の感情を持て余していた。

「元々、私の実力では難しいとわかっていたし、それを承知の上で挑戦して落ちた。覚悟してたはずなのに、思ってたよりずっと悔しくて悔しくて。変な感情が芽生えちゃって」
「変な感情って?」
「…受かった人がうらやましい…を通り越して、妬ましいって思っちゃった」
「それって別に普通じゃない?自分が欲しいものを別の人が手に入れたら、羨ましくも妬ましくもなるよ」
「…そうかもしれないけど…」

なんと伝えたらいいのか。うまく言葉にできずにいると、おめでと、と言われて顔を上げる。

「おめでとう…?」
「うん、おめでと。いい子ちゃんでいることからの卒業だね」
「…え?」
「宝ちゃんの第二章の始まりって感じじゃない?」
「第二章?」
「そもそも宝ちゃんは無欲過ぎたんだよ。無欲…というか、無関心だったのかも。自分の欲望にね。嫉妬は自分の欲望に気がつくきっかけなんだし、むしろ良かったと思うけどね。宝ちゃんがバージョンアップするチャンスって感じ?」

大輝くんの話は、前にトモさんが話してくれた、うらやましい、と思うことが人生のヒントになるということに似ていたけれど…うらやましいを超えた“嫉妬”という感情を私は今、ポジティブに受け入れることができていない。

それでも、第二章の始まりになるのだろうか。その迷いを大輝くんに伝えようとした時、私の携帯がなった。

トモさんからだった。

「ビデオ通話なんだけど、出てもいい?」

トモさんからだと伝えた上でそう聞くと、大輝くんは、もちろん!と笑った。

「あ、タカラ、今大丈夫?」

トモさんは今日も既にコックコートだった。今日の会ことを昨日の通話でトモさんに伝えると、もしよかったら久しぶりに雄大さんに挨拶をしたい、といわれたので、雄大さんと愛さんにはトモさんから電話がかかってくることを前もって伝えて了承を得ていた。

いつものマシェリ(愛しい人)的な挨拶がなかったのは、皆の前でそう呼ばれるのは恥ずかしいという私の意図をくんでくれたからだ。

「お、隣は大輝くん、だね?」
「そうです、伊東さんご無沙汰してます!」

並んで座る大輝くんが画面に映ったことで、しばらくトモさんと大輝くん2人の挨拶の交換が続いた。そのあとトモさんに、雄大さんは?と聞かれたので、今愛さんと雄大さんは席を外してて…と当たり障りない範囲で説明した。

じゃあもう少し後にかけなおそうか?とトモさんが電話を切ろうとしたとき、あ、伊東さん、と大輝くんが声を上げた。

「オレ、伊東さんにお願いがあるんです。タカラは大切な友達だから」

― …た、から?

初めて呼び捨てにされたことに驚いて、私は大輝くんを凝視してしまった。トモさんは呼び捨てを気にする様子はなく、なんだろう?と大輝くんを促した。

「タカラを大切にっていうのは当然なんですけど…泣かせないくださいね、絶対に」
「もちろん。大切にしすぎるほどするよ。でも…泣かせないっていうのは…どうかな。タカラは意外と泣き虫だから、絶対とは約束できないかも。ね、タカラ?」

からかうように言われて、トモさん!と大きな声が出た。泣き虫などと29歳にもなって言われるのは恥ずかし過ぎるし情けない。

「でも、大輝くん、こちらこそタカラのことをよろしくお願いします、だよ。大輝くんみたいな人がタカラの側にいてくれると思うと、安心できるんだよね。タカラは意外と危なっかしいから」

ホントはオレがずっと一緒にいたいんだけど…というトモさんの言葉に照れてしまい思わずうつむいた私を、タカラ、と呼び戻したのはどちらだったか。

その声に顔を上げると、頬に何かが触れた。その何かが大輝くんのキスだと気がついたのは、手に持っていた携帯、その画面の中の映像で、だ。


「…え?」
「…は?」

私とトモさんの声が重なり、画面越しに顔を見合わせること数秒。そのまま固まった私とトモさんに、大輝くんは今日何度めかのにやりとした悪い顔を向けて言った。

「安心なんかしてる場合じゃないですよ?ゆるゆると余裕をかましてたら、その間にタカラが目移りしちゃうかも」
「目移りしないよ、私は…!」
「え〜。わかんないじゃん。遠距離恋愛なんていつどうなるか…」
「…大輝くん、そ、それはどういうつもりで…」

トモさんが言いかけた言葉は、画面にトモさんの部下が映りこんだことで止まった。何やら指示を求められて話し始めたトモさんに大輝くんが、爽やかに言った。

「伊東さんお忙しそうなので、一旦切りますね!雄大さんたちと合流したら、こちらからかけなおしますので、ご心配なく〜」

大輝くん?と慌てたトモさんを気にせず、大輝くんは私の携帯の通話終了ボタンを押した。

「…どういうつもり…?」
「…んー。娘に結婚相手を紹介されたお父さんの気持ち、かな。つい意地悪したくなる的な?」
「…はい?」

いやいや私の方がお姉さんだし…!その前にその、急な呼び捨ては一体…?と半ばパニックで聞いた私を大輝くんは完全に楽しんでいる。

「ちゃん、って、よそよそしくてそろそろやめたいなって思ってたから。ほらオレたち親友でしょ?」

伊東さんだけ呼び捨てにするのズルいと思っちゃったし?と、その屈託ない笑顔に脱力する。

「Say、ダイキ」
「え?」
「タカラも呼び捨てにしよ、今日からオレのこと。はいどうぞ」

と言われても、男の人を呼び捨てにした経験なんて、元カレ1人しか、ない。しばらく躊躇していたけれど、まるでコンサートのコール&レスポンスのようにしつこく折れない大輝くんに根負けし、初めて、ダイキ、と呼んだ。

「タカラとダイキ、ってなんか歌のタイトルみたいでよくない?あれ?怒っちゃった?タカラちゃーん?」

怒ってはないけど…!!と答えてすぐにハッとして、、私はトモさんに、あとでまた電話するね、ごめんね、とLINEを入れた。すぐに、うん、またあとで、と返信がきたことに安心しつつ、大輝くん…改め、大輝を、キッと睨んでみる。

「わ〜タカラ、こわーい」

とふざけて全く悪びれる様子がなく、無邪気に笑うこの美しい男性を。私は一人っ子だけど、もしも弟がいたらこんな感じなのかも…と愛おしく思えたのは…出会って初めてのことかもしれなかった。




愛さんから戻ってきて大丈夫という連絡を受けたのは、部屋を出てちょうど一時間くらいが経った頃だった。

― どうなったんだろう…!

部屋に着くまで2人の話し合いがどうなったのか全く見当もつかなかったから…とりあえずもう一度付き合ってみることになったという報告を受けて、私は思わず声を上げて愛さんに飛びついてしまった。

背後で雄大さんが、ダメになったらダメになった時で…と言いながらも幸せそうな顔を隠せていなかったというのは、のちに大輝から聞いた話だ。

愛さんと雄大さんの話が落ち着いてから、私は事情を説明して、トモさんに電話をかけさせてもらい、雄大さんと愛さんにつないだ。

悪ノリが過ぎると大輝に謝らせた愛さん、そして宝ちゃんをよろしくと伊東さんに伝える雄大さんを、トモさんが、なんかお2人って宝ちゃんのご両親みたいですね、と笑った。

そして、その後。私の試験が終わったことへの労いと、愛さんと雄大さんの復活愛へのお祝い乾杯が何回も繰り返されるうちに、珍しく雄大さんが眠いと言い出し、しばらくすると大輝がダウンした。

大きな男性2人がキングサイズのベッドに並んですやすやと眠る、そのどことなくシュールな様子を笑いながら、気持ちよく酔いは回っているけれど全く眠くならない私と愛さんは、2人で語り続けることになった。

出会ったのは去年の11月で今は7月末。まだ一年も経ってないってことかぁ…と愛さんがしみじみと言う。

「宝ちゃんとはもっとずっと長く一緒にいるような気がする」
「西麻布に引っ越してきて…こんなに感情が忙しかった日々は、私たぶん、人生で初めてだと思います」

そっかぁとつぶやきながら、ソファーで並んだ私の肩に、愛さんがその小さな頭を甘えるように乗せる仕草がとてもかわいい。

「宝ちゃんは前の恋を終わらせて、この街に来て、私たちと出会って…いろんなことに巻き込まれちゃって、ケンカもして。そして何より、また恋をしたんだもんねぇ」

そりゃ感情も忙しくなるよねという愛さんの言葉に、本当にその通りだと思う。

元カレの祥吾と別れたのが西麻布に引っ越す約半年前。ということは、あれから丁度一年くらいが経つのだ。

「改めてありがとうを言わせて。宝ちゃんがこの街に引っ越してきてくれたことに。私たちと出会ってくれてありがとう。宝ちゃんと出会えて本当によかった」

愛さんの目がうるんで、それにつられてしまう。こちらこそありがとうございます…!とこみあげた熱の勢いで愛さんを抱きしめると、愛さんが涙声で言った。

「…なんか…私たち、今、すごく、青春っぽくない?」

青春。本来なら…とっくに通り過ぎたはずの、人生の春。でも私は。

「私…これから先、青春の思い出を聞かれたら、と聞かれたら、きっと今のことを…この街でみなさんと過ごした日々を思い出すんじゃないかと思います。

驚いて刺激的で。苦くて痛くて失敗もして、それでも必死で。楽しくて幸せで…キラキラしてたなぁって」

ここは大人たちが青春をやり直す店。そう言ったSneetの店長の、その言葉を思い出す。

そんな店で愛さんや…雄大さん、そして大輝くんに出会えたことは、まるで人生のご褒美のようだ。

青春かぁ、と愛さんが呟く。

「確かに、ね。でも青春って言っても。アオハル的な初々しくて甘すぎるやつじゃなくてさ。もっとなんか…」

なんか、こう…と何度か繰り返しながら、愛さんは少しだけ考え込んだあと、ふふふ、と照れたように笑って続けた。

「現実は夢物語じゃないことを知ってるからこそ…相手の痛みも自分の傷も受け入れられるし許し合える。むしろその傷や痛みがあったからこその愛おしい日々、みたいな。…ビタースウィートな大人味の青春、って感じ、じゃない?」

▶前回:「キャリアに迷って…」28歳女性が、難解な社内公募に挑戦。影で支えるありがたすぎる彼の存在とは…

▶1話目はこちら:27歳の総合職女子。武蔵小金井から、港区西麻布に引っ越した理由とは…

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次週、最終回。