大洋のエース・平松政次が語る江川卓「我々とレベルが違うというか、備わっているベースが違う」
連載 怪物・江川卓伝〜平松政次がうらやんだ唯一無二の能力(前編)
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魔球とは、プロ野球界において伝家の宝刀とも言える一撃必殺なボール。ピッチャーであるならば、ただの変化球ではない神秘めいた魔球を会得したいと誰もが思う。
ドロップなら沢村栄治、フォークなら杉下茂、シンカーなら山田久志と、それぞれの魔球において伝説的な名手が必ず存在し、シュートの歴代名手として真っ先に名前が挙がるのが平松政次だ。
1960年代後半から70年代、 "カミソリシュート"を武器にセ・リーグの強打者を苦しめた元大洋(現・DeNA)のエース。平松に江川卓について尋ねると、屈託ない表情で語ってくれた。
シュートを武器にプロ通算201勝を挙げた平松政次 photo by Sankei Visual
「1979年6月(21日)、横浜スタジアムの試合で江川が4回からリリーフで出てきたんだよね。『おぉ、これが江川か』って、あらためてすごさを見せてもらった。情報として、作新学院時代の甲子園での快投とか、多少なりとも予備知識があったうえで。やっぱりすごいボールを投げるピッチャーだなと思いながら見ていたね」
高校野球の申し子でもある江川に対して、平松だって負けてはいない。高校3年春に岡山東商業のエースとして、39イニング連続無失点記録を樹立してセンバツ優勝を果たしている。
社会人野球の日本石油(現・ENEOS)時代は、都市対抗でも優勝。プロ入り3年目から12年連続2ケタ勝利を挙げるなど、通算635試合の登板で201勝を挙げた。その平松が、社交辞令抜きで江川の能力を手放しで称えることに驚いた。
「我々はボールを投げて、投げて、投げまくって、少しずつ力をつけてきたんだけど、おそらく江川は、初めて投げた時から速い球を投げられる能力を備えていたと思うんですよね。だから"怪物"と呼ばれたんじゃないですか。我々とレベルが違うというか、備わっているベースが違う。
いろんなスポーツ選手がいるなかで、持って生まれた力量というのがあると思うんですよ。野球で言えば、たとえば打者なら王貞治さん、ピッチャーなら、昔なら沢村栄一さん、金田正一さん、一緒にやっていたなかでは江夏豊とか堀内恒夫とか......。その後に江川、そして松坂大輔。
江川を初めて見た時、やっぱりすごいっていう言葉が自然に出てくるピッチャーだった。江川の体は、ボールを投げるためのバネや筋力が初めからできあがっていた。ボールを投げることに関しては、ほかの人とまるっきり違ったものを持っていて、高校で初めて作新の江川が全国に知れ渡るようになったんだけど、中学の頃からほかの投手とは違うというのがあったと思うんですよ。私なんかそんなものないですから」
平松ほどのピッチャーだからこそ、江川のポテンシャルの高さを目の当たりにしたとき、素直に認めざるを得ないのだろう。まさしく「一流は一流を知る」だ。
【いつも100%で投げるだけ】平松は、社会人までストレートとカーブしか球種がなかった。それでも高校時代はセンバツ優勝、社会人では都市対抗優勝と結果を残し、1966年第二次ドラフト会議で大洋から2位指名を受けたものの、翌シーズンの8月の都市対抗出場のため入団を遅らせた。当時の社会人は、そういうケースが多かった。平松は、8月8日の都市対抗決勝で日本楽器を完封して優勝を果たし、MVPにあたる橋戸賞を獲得。その2日後に入団する運びとなった。
8月に途中入団すると、すぐに先発で起用され3勝。そのうちふたつは完封だった。
「あの3勝のなかでの2完封は、ラッキーの賜物。最初の完封となったサンケイアトムズ(現・ヤクルト)戦は、もうほんとに超ラッキーですから。結果を見れば3対0の完封なんだけど、内容はもう恥ずかしくて......その日はものすごい風が吹いていて、ルー・ジャクソン、デーブ・ロバーツといった外国人バッターふたりに右中間、左中間にいい当たりを打たれたんだけど、風に戻されてね。ラッキー、ラッキーで勝ったゲーム。ふたつ目の完封は巨人戦だったけど、満足したピッチングで完封しているわけじゃないんです」
ラッキーな勝ち方とはいえ、8月中旬からの入団デビューで3勝を挙げた平松に、球団側は未来のエース像を抱くのも無理はない。初めての春季キャンプを迎えた2年目の平松は、そんな首脳陣の期待に反して5勝12敗という成績に終わった。
コントロールがままならず、球種のストレートとカーブのみ。カーブも決め球というほどの威力はなかった。それが、入団3年目の春季キャンプに転機が訪れた。
雨のため体育館で練習中にベテランの近藤昭仁、近藤和彦らが目慣らしをしたいということで平松が投げていると、「おい、ほかにボール、ないんか!」と語気を強めたひと言が放たれた。
平松はカチンときた。「舐められているな、こうなったら」と、4年前の社会人時代のキャンプで日本石油OBから一方的に教えられたシュートを、なんかよくわからないまま試しに投げてみたことから、カミソリシュートが誕生したのだ。
このシュートは、あの"ミスター"こと長嶋茂雄ですら対戦前夜は眠れなかったというほどの威力を持っていた。右打者の体に向かって浮き上がるように食い込んでくるカミソリシュートで、平松は勝ち星を積み重ねていった。それでも平松は、能力の違いをまざまざと見つけられたと語る。
「だいたいプロ野球に入ってくるまでの江川のすごさといったら、私がセンバツで優勝しましたけど、彼のほうが甲子園での逸話はあると思うんですよね。法政大時代でも相手チームの力がなければ流して投げるとかね。我々には考えられないことなんです。
江川は決して手を抜いていたわけじゃなく、相手を見ながらピッチングできた。それだけの力量があったから可能だったのでしょう。
私はプロで600何試合投げていて、子どもの頃から数えれば何千試合と投げていますけど、一度たりとも相手を見ながら投げたことはなかったというか、できなかった。いつも100%で投げるだけでした。でも江川は、それができるからすごいんです」
決して嫌味ではなく、余力を持って圧倒的に抑えられる江川の桁違いのポテンシャルを、平松は同じピッチャーとして痛感していた。
(文中敬称略)
後編につづく>>
江川卓(えがわ・すぐる)/1955年5月25日、福島県生まれ。作新学院1年時に栃木大会で完全試合を達成。3年時の73年には春夏連続甲子園出場を果たす。この年のドラフトで阪急から1位指名されるも、法政大に進学。大学では東京六大学歴代2位の通算47勝をマーク。77年のドラフトでクラウンから1位指名されるも拒否し、南カリフォルニア大に留学。78年、「空白の1日」をついて巨人と契約する"江川騒動"が勃発。最終的に、同年のドラフトで江川を1位指名した阪神と巨人・小林繁とのトレードを成立させ巨人に入団。プロ入り後は最多勝2回(80年、81年)、最優秀防御率1回(81年)、MVP1回(81年)など巨人のエースとして活躍。87年の現役引退後は解説者として長きにわたり活躍している