【パリオリンピック高飛び込み】17歳の玉井陸斗が日本史上初めて掴んだ五輪メダル 馬淵崇英コーチの積年の思いの結実とさらなる夢
中国勢と互角に渡り合い歴史的銀メダルを獲得した玉井陸斗 photo by JMPA
パリ五輪飛び込み競技最終日の8月10日、男子10m高飛び込みで、17歳の玉井陸斗(JSS宝塚/須磨学園高)が日本飛び込み界史上初メダルとなる銀メダルを獲得し、新たな歴史を切り開いた。
2019年の日本選手権において13歳という若さで優勝し、一躍注目を集めた玉井。同大会では年齢制限で出場できなかった同年7月の世界選手権4位相当の得点をマークし、翌2020年の日本選手権では2016年リオデジャネイロ五輪3位相当の得点を叩き出した。
シニア初の世界大会となった2021年の東京五輪では7位。日本勢として同種目では、2000年シドニー五輪の寺内健以来21年ぶりの入賞を果たした。さらに翌年のブダペストでの世界選手権では、中国勢の一角を崩して銀メダルを獲得。大いなる飛躍を遂げた。
ただ、福岡に行なわれた2023年世界選手権では、パリ五輪代表内定条件の決勝進出を果たしながら、決勝は3日前に再発した腰痛のために1本跳んで棄権。五輪出場の内定を確定させただけで、以降は治療に専念してきた。
そして五輪イヤーとなる今年、その状態が心配された玉井だったが、五輪本番へのテスト大会を兼ねた5月のフランス・オープンで優勝。東京五輪金メダリストの曹縁(中国)を破って、完全復活をアピールしていた。
パリ五輪本番。玉井は予選で五輪連覇を狙う曹に3点差の497.15点で2位に入った。しかし、準決勝では2本目の207B(後ろ宙返り3回転半エビ型)と、5本目の307C(前踏み切り後ろ宙返り3回半抱え込み)で失敗。曹だけでなく、今年2月のドーハ世界選手権で優勝した楊昊(中国)にもリードを許しての3位となった。
だが、決勝に臨む玉井の気合いがそれまでとはまったく違っていた。試技順は中国勢ふたりの前、最後から3番目。1本目にジャッジが9.0点と9.5点を並べる完璧な演技を見せて2位につけると、準決勝では失敗した2本目も95.40点という高得点を獲得し、難易度が少し低かった曹を0.10点上回りトップに立った。
そして、3本目の109C(前宙返り4回転半抱え込み)と4本目の6245D(倒立後ろ宙返り2回2回半ひねり)は、ともに90点台を獲得。曹も3本目に97.20点をマークして首位の座を譲ったが、「必殺技みたいな、僕のなかでは相棒であり、一番点数が出せる確実な大技」と考える6本目の、5255B(後ろ宙返り2回半2回半捻りエビ型)で逆転できる可能性を残した。
ところが、準決勝でもミスをしていた5本目の307Cが39.10点と大失敗。トップの曹には52.45点差をつけられたうえに順位も3位に沈み、金メダルの可能性はほぼなくなった。玉井を指導する馬淵崇英コーチが言う。
「307Cは、本当は問題なくこなせる種目だけど、少し回転し過ぎた。予選と準決勝は少しショート目だったので、回転をかけたのですが......。その失敗が大きかった」
玉井自身は、その失敗をこう振り返った。
「(307Cへの)苦手意識が強いのは昔からあるが、それと同時に、金メダルが獲れる位置にいる緊張感に負けてしまったというか、肩に力が入ってしまったという印象です。(失敗したことは)すごく悔しいけど、悔いが残らないように思いっきりやるということだけを意識したので、悔いはないです」
そうして、思わぬ失敗にも最後まで攻めの姿勢を貫いた玉井は、最後の5255Bで魅せた。同じ種目を跳んだ曹を12.60点上回る99.00点という完璧な演技を披露。合計得点を507.65点まで伸ばして、2位で試合を終えた。
玉井が充実した表情で語る。
「歓声や崇英コーチの喜んでいる姿を見てホッとしました。(飛び込み界における)日本初メダルというのは知っていて、競技中は考えないようにしたけど、やっぱりチラついて緊張しました。
でも、そうした状況でいい演技ができたのはすごくよかった。中国選手と1位を争う緊張感はすごく楽しかったです。僕が追う側で、圧をかけたい気持ちはすごいあったし、いい形で圧をかけられたかなと思います」
見事メダルを獲得した玉井について、崇英コーチはこう称えた。
「予選と準決勝は余力を残して、決勝ですべてを出しきるという予定で臨んだ。決勝の4本目までは100%計算どおりで、あと3点差を追い詰めて金メダルを獲れるんじゃないかと思いました。でも一瞬、『金を獲ったらどうしよう』と考えたのが余計だった(笑)。
ラストの1本は、陸斗の得意中の得意な種目とはいえ、決め方がすごいと思いました。1本失敗しても、挽回する力と精神的な落ち着きがある。『何としてもメダルは逃さない』という強い意志が感じられました」
【崇英コーチの30数年越しの夢の結実】
銀メダル確定後、玉井と喜びを分かち合う崇英コーチ photo by JMPA
メダルが確定すると、玉井はガッツポーズをしながら喜びを爆発させたが、それ以上に感激して涙を流していたのは、崇英コーチだった。
「もう本当に長い間......30何年間をかけてやっとメダルを獲れた。陸斗にメダルをかけてもらい、長い間、恋人のように追いかけて、追いかけてきたメダルと、やっと正式に結婚できたという感じで、本当に最高の瞬間でした」と感慨深く話す。
崇英コーチが続ける。
「日本協会の飛び込み関係者や、応援してくれた方々にとっても悲願というか、特に(馬淵)かの子先生(日本飛び込み界の先駆者)には電話を入れましたが、もう感動で言葉が出ないぐらいだった。私だけが夢を追いかけてきたわけではなく、かの子先生も60〜70年間、夢を追いかけてきて、それを私が託されてきた。そして、私から寺内健や次の選手にも、陸斗にも(夢を)託して、やっと獲れた。このメダルの重みとメダルの価値は、もうこれ以上ないぐらいです。
残るは金メダルだけだけど、今回も金を獲る余力を残しながら計算どおり戦えたのではないかと思うし、金を獲る可能性は確信できたんじゃないかな、と。あと一歩、その目標は4年後の楽しみにできるのではないかなと思います」
オリンピックでのメダル獲得――それは、飛び込みの日本代表関係者のみならず、JSS宝塚の夢、崇英コーチの夢でもあった。
崇英コーチは飛込王国・中国で競技者の道を、20歳を前にして断念。若くして指導者に転身した。中国代表入りの話もあるほどのコーチになったが、ちょうど国の体制が改革・開放の時期だったこともあり、海外の大学でスポーツ科学を学ぶことを選択。それを中国に持ち帰りたいと考え、数カ国への留学を希望したうち、最初にビザが下りた日本に1988年にやって来た。
すると、日本語学校で日本語を学んでいた時だった。崇英コーチの来日を知った、JSS宝塚の馬淵かの子コーチから熱心な勧誘を受けた。そして1989年11月、コーチとして宝塚に行くことを決意した。
最初は、中国の環境とはまったく異なることに驚いた。そこには、板飛込の台しかない、狭いプールしかなかったからだ。クラブに通う選手たちも習い事のレベルで、素質の欠片さえ見えなかった。
崇英コーチは、かの子コーチから「日本トップクラスの選手を育ててほしい」と言われていたが、「どうせやるならそれ以上を」と内心で思っていた。しかしその現実を目の当たりにして、「世界を狙えるような選手がいなければ、飛び込みに固執することはない」という考えにも至っていた。
それが1991年の秋、当時小学5年生の寺内健と出会って考えが変った。その身体能力の高さと目つきを見て、「この子は厳しい練習にも耐えてくれる。オリンピック出場は間違いない」と直感的に思った。
それから、10年かけて彼を育てることを決意。高校1年生の寺内を1996年アトランタ五輪出場に導いた。さらにその後、1998年世界選手権の高飛び込みで寺内が5位に入賞。崇英コーチは日本への帰化申請をし、本気で五輪でのメダル獲得を目指すと決めた。
結局、その寺内は2001年の世界選手権3m飛び板飛び込みで銅メダルを獲得したが、6回出場したオリンピックの個人種目ではメダルに届かず、2000年シドニー大会高飛び込みの5位が最高成績だった。また、女子では東京五輪において、女子シンクロ高飛び込みで6位入賞を果たした板橋美波と荒井祭里らを育てたが、メダルには届かなかった。
それでも長い年月を経て、ついにパリ五輪で玉井が表彰台に辿り着いた。
「中国に追いつき、追い越すという思いでやってきたが、今回の試合をステップにして、中国選手以上の演技を作り出したいと思いました。陸斗の演技で世界を魅了したいという思いも強くなった。中国選手以上の綺麗さやジャンプの迫力、そういうものを次の目標として頑張っていきたい」
次なる夢へと思いを馳せる、玉井と崇英コーチ。ふたりの挑戦はロサンゼルスへと続いていく。