意外とわからない「発達障害」と「個人差」の違い…「発達障害の子ども」も「発達」する

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言葉が幼い、落ち着きがない、情緒が不安定。

育ちの遅れが見られる子に、どのように治療や養護を進めるか。

講談社現代新書のロングセラー『発達障害の子どもたち』では、長年にわたって子どもと向き合ってきた第一人者がやさしく教え、発達障害にまつわる誤解と偏見を解いています。

※本記事は杉山登志郎『発達障害の子どもたち』から抜粋・編集したものです。

発達障害も発達する

子どもは発達をしてゆく存在であり、発達障害の子どもたちも当然、日々発達してゆく。その過程で、凹凸や失調は全体としては改善をしてゆくのが普通である。むしろ、改善をしていかなければ何かおかしなことが起きたと考えるべきであり、二次的な問題の派生を疑う必要がある。

そして成長をして大人になったときに、子どものころに発達障害を持っていたとしても、生活をしてゆく上で、支障になるようなハンディキャップを持ち続けているとは限らない。『発達障害の子どもたち』第1章で紹介したB君のように、むしろそのような改善が大多数の場合には実現可能である。

いまだにきちんとした科学的な裏づけのない発達障害の「奇跡的治療」が喧伝されることがあるのは、この点の誤解にあるのではないかと思う。「〇〇療法」によって劇的に改善した、といったレポートがテレビで放映されると、筆者の外来にも、その是非を巡って質問をされるご家族が必ずいる。筆者は次のように答えるのが常である。

「お子さん自身を振り返ってください。この何年間かで、ずいぶん成長をしなかったですか? もしカメラを、初診のとき、半年後、一年後と回して記録を取っていれば、テレビレポートもびっくりの大きな発達をしているでしょう」

すると「そういわれてみればそうですね」と応じられて、この話はそれで終了となる。

このような子どもならではの特殊性があるために、ほとんどの発達障害について、精神医学では慎重な定義が作られてきた。大部分では、診断基準に「その発達の問題によって社会的な適応が損なわれているもののみを障害とする」という除外項目が付加されているのである。生来の素因を持って生じた発達障害に対して、さまざまなサポートや教育を行い、健全なそだちを支えることによって、社会的な適応障害を防ぎ、障害ではなくなるところに、発達障害の治療や教育の目的がある。

子どもを正常か異常かという二群分けを行い、発達障害を持つ児童は異常と考えるのは今や完全な誤りである。発達障害とは、個別の配慮を必要とするか否かという判断において、個別の配慮をしたほうがより良い発達が期待できることを意味しているのである。

ここでは次のように発達障害の定義を行っておきたい。

発達障害とは、子どもの発達の途上において、なんらかの理由により、発達の特定の領域に、社会的な適応上の問題を引き起こす可能性がある凹凸を生じたもの」

できれば筆者としてはすべて〇〇失調と書きたいところであるが、読者のよけいな混乱を招かないよう、本書では以下の記述において、心ならずも一般的な呼称である障害を用いることとする。

個人差と発達障害の違い

ここにあげたおのおのの発達の側面については、いわゆる「個人差」がある。どこまでが問題として取り上げるべきで、どこまでが個人差のレベルなのかということについては、先ほどすでに触れた。その苦手さが、生活の上で不具合を生じているのであるとすれば、発達障害として、診断や治療また個別の教育(特別支援教育)の対象となるのである。

学校の先生からしばしば聞くのは、クラスの中でサポートが必要な子どもに受診を勧めると「うちの子を障害児にするのか」と激怒する親が少なくないという苦情であるが、これは親の側の思いこみによる誤解に基づいていると言わざるを得ない。

要するに、本人の責任ではないことによって(本人が怠けたり、わざと反抗したりしているのではなく、また親の躾の不備によるものでもなくて)学校生活に支障が起きていることが明らかとなったのに、この本人にとって不幸な状態を、医療機関など専門家の助けを借りてなんとか解決しようという申し出を、発達障害という名前に由来する偏見から、拒絶をしてしまおうとしているのである。親が怒ったところで、子どもの持つ問題が解決するわけではまったくない。学校教育の選択に関しては後にまた詳しく述べよう。

偏見は、誤った知識から生じる。この本は、発達障害に対する誤った知識を減らし、どのようにすれば発達障害を抱える子どもたちがより幸福に過ごすことができるようになるのか、正しい知識の紹介をする目的で書かれている。

さらにいわゆる専門家のサイドにも実は誤診例が存在する。従来、発達障害を非常に限定的に捉えていたために、比較的軽微なものに関しては、後述する子どもの高い代償性もあって、その存在に気づかれずに青年期、あるいは成人期を迎えることも生じてきた。特に知的障害を伴わない軽度発達障害は、軽微とは言いがたいさまざまな適応上の問題を生じていても、発達障害の存在に気づかれずに経過する場合がある。

従来の精神科臨床では、青年期、成人期の患者の診療に際して、乳児期、幼児期の発達状況を丹念に聴取するという習慣を持たなかったために、統合失調症をはじめとするさまざまな精神科疾患において発達障害の基盤を持つことに気づかれずに診断がなされ、治療が行われていた例は少なくない。この問題は、今後大きな議論になる可能性がある。

発達障害の新たな分類

筆者は現在、発達障害は四つのタイプに大別されると考えている(詳しい表はぜひ書籍でご覧ください)。

第一のグループは認知の全般的遅れを示す精神遅滞と境界知能、第二のグループは社会性の障害である広汎性発達障害(自閉症スペクトラム)、第三のグループはいわゆる軽度発達障害で、行動のコントロールなど、脳のある領域の働きと他の領域の働きとの連動に際して障害を生じるタイプであり、注意欠陥多動性障害(ADHD)や学習障害(LD)、発達性協調運動障害が含まれる。第四のグループは子ども虐待にもとづく発達障害症候群である。

ここで子ども虐待が登場することに驚かれる読者が存在するかもしれないが、子ども虐待は、先の発達障害の定義にきちんと合致する。それぞれのグループについて、できるだけわかりやすく説明してみたい。

※本書で取り上げられている事例は、公表に関してはご家族とご本人に許可を得ていますが、匿名性を守るため、大幅な変更を加えています。

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