2024年1月1日に能登半島地震が発生しました。今回は、カウンセラー・エッセイストの若松美穂さんが、2011年3月11日、東日本大震災での個人的な体験についてつづります。

この度、能登半島地震の被害に遭われた方々に、心よりお見舞い申し上げます。
今回の内容は、過去の東日本大震災での、個人的な経験談です。あくまでも自分の周辺にあったことですので、比較したり、どなたかに当てはめて考えるものではありません。

震災後、友人やご近所さんの優しさに救われる

2011年の東日本大震災では、宮城県の沿岸部に住む両親が被災し、家と仕事を失いました。あれから、本当にたくさんの方たちに助けていただいたことを実感しています。

家族の安否が分からなかった数日間、埼玉県のわが家は時間が止まっていました。身内が生死をさまよっていると思うと、なにかを口にする元気もありませんでした。
子どもたちもとても不安そうでしたので、リビングに布団を敷き、24時間共に過ごしました。

それぞれが眠れるときに眠る。連絡が取れる人と連絡を取る日々。
現地の知り合いの「私が様子を見てくるよ」「○○さんは無事だった」という電話に助けられつつ、ただ心配する、連絡を待つことしかできませんでした。

そんなとき、友人たちがわが家に食料を差し入れを運んでくれました。
「今、多くの人が買い物に出て、スーパーに食べ物がないということも知らないんじゃないかと思って」(実際知りませんでした)。
調理の必要のないおにぎりなどすぐに食べることができる食料を届けてくれた方も。

「ちゃんと食べてね」と、手づくりケーキやお菓子を持ってきてくださったご近所さん。
今でもあのときの優しい気持ちとありがたい気持ちを忘れられません。

メールで温かさを感じ励まされました

あの時期、友人や知り合い、お仕事関係の方にたくさんの心配メールを頂戴しました。ただ、のちのち皆さんが「メールを送っていいものか、なんと声をかければいいのかわからなかった」とおっしゃっていました。
それでも、悩みながら、考え言葉を選び、メールを送って下さった。

孤独や寂しさや悲しさを感じたとき、「なにがあっても私たちがそばにいるよ」と言われているようで、心強かったのを覚えています。
ある意味、返信している時間すら、心を落ち着ける時間になっていたような気がします。

必要としている人に届けたい。たくさん集まった支援物資

これは、郵便物の配送ができるようになってからのことです。
必要としてる人に確実に届きますようにと、遠くにいる身内や友人が支援物資を私のところに送って下さいました。本当にありがたいことです。

わが家の物資も追加して、できるだけ多くの親戚に届くようにと仕分け。家族みんなで、何度も郵便局に足を運びました。

時間が経つと「現地で必要なもの」が、少しずつ変わって行くのを感じました。現地の方たちが教えて下さらなかったら、わからなかったと思います。

現地で喜ばれた意外なもの

お送りして喜ばれたのは、生活必需品はもちろんですが、たとえば、お子さんの誕生日プレゼント。皆さん日々の生活が大変で、買いたくても買う場所や時間がなかったのです。
希望の品を教えてもらい、お送りしました。

また、予想外だったのはチョコレートなどの甘いもの。
私の買い出しが遅く、スーパーに行ってもなにも売っておらず、買うことができたのがお菓子だけだったというのが実情なのですが…。

現地の友人曰く、支援物資をもらうのに並んでも一人〇個までと制限があって、牛乳やトイレットペーパーなど本当に必要な物資だけで終わってしまう。
(友人は震災後、ご主人が仕事で家にいることができず、支援物資に並ぶのも自分だけだったので、一人分しかもらうことができなかったのだそう)

そんなときに送った荷物が届き、「袋をあけたら、子どもたちがお菓子を見て、わーっと笑顔になってうれしかった」と言われたときには、私の方が涙が出ました。
大人の方でも、疲れたときにチョコレートを食べたらホッとしたよと。

ご両親、おじいちゃんおばあちゃんにとって、お子さんやお孫さんの喜ぶ顔は元気の素やエネルギーになるようでした。

地震の多い国に暮らすということ

あれから年月が経っていますが、今でも助けてもらったこと、教えてもらったことは、心に残っています。

能登半島地震で今、必要とされているものや物資の輸送状況などまた違うかもしれませんが、東日本大震災での個人的な体験をお伝えしました。
地震の多い国に暮らす私たち。今後も自分にできることをしていこうと思います。