純丘曜彰 教授博士 / 大阪芸術大学

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/戦後の日本、田舎者たちが都会に寄せ集められ、村祭りの盆踊りに代えて、ダンスホールやディスコに集い、みんなで踊った。しかし、それも、バブル崩壊で、それぞれの好みの音楽に特化したライブやクラブの箱に散っていく。/

数十年も前のうろ覚えだから、いろいろまちがっているかもしれない。ダンスミュージックとして生まれたブギは、リフ(繰り返し)でできている。日本では米軍キャンプから入ってきて、全学連時代の68年、そういう大衆運動を嫌うスカした高踏連中が集まって、赤坂にムゲンができ、BBキングが来たりしていたらしい。

71年に米国で「ソウルトレイン」というテレビ番組が作られ、75年にはTBSが土曜2330に隔週で放送。これで、あのテーマ曲やスリーディグリースなど、幅広いブラックミュージックが一気に流れ込んだ、と言っても、東京でラジオのFENや深夜放送を聞いていたような、変な高校生だけだったのかもしれないが。

世間にディスコブームを作ったのは、77年の『サタデーナイトフィーバー』。成城や青学などのハイソ系の浜トラ陸サーファーが集う六本木XANADOU~NIRVANAや渋谷CANDYがトレンドをリードし、東京12チャンネルに移った「ソウルトレイン」によって、さまざまなダンススタイルが普及。実際に10階建て六本木スクエアビルがディスコを満載。

しかし、大衆化しすぎて、箱がパンクしてトイレが壊れるわ、上京組のどんくさいやつらだらけになるわ、で、82年、麻布に高級ディスコ、マハラジャがオープン。黒服が客を選別。曲もソウルよりユーロビート中心に。そして、いよいよバブルで、あちこちに、いまのコンセプトカフェの先駆けになるような凝ったインテリアのカフェバーができた。このころ、ちょうどテレビ局で仕事をさせていただいていたので、仕事帰り、てっぺんまわった後に、あちこち見に行った。

87年、六本木の裏通りに、高級店の対極を行くサイバーパンクをコンセプトにしたどでかい、あのトゥーリアが。ところが翌88年の新年早々、巨大照明が落下。あの事件があった直後の春に、劇団四季はよく『オペラ座の怪人』をやるもんだなと思った。しかし、舞台は湾岸埋め立て地の倉庫街に移って、88年、イベント複合施設を併せ持つMZA有明、89年には、さらに巨大な芝浦GOLDができる。しかし、あまりにぶっとんだLGBT系が多く、もはやちょっと近づき難い。DJがサンプルをいじくってやたら繰り返す、BPM120に統一されてズゴズゴとしたハウスを流行させる。

そして、いよいよとどめ、91年のジュリアナ東京。もうバブルそのもの、見栄っ張りと露出狂のバカばっか。ただ、音楽的には、T99のアナスタシアを皮切りに、ラップ、フーバー(掃除機)ノイズやオーケストラヒット、スクリームサンプリング、おまけにサイレンまで多用してBPM144まで上げた狂乱のEDM(Electric Dance Music)を作り上げる。しかし、いいかげん、店の方が嫌気がさして、お立ち台も廃止したが、それでも田舎者の見物客が集まるので、バブルが終わる前、94年にはもう閉めてしまった。

それでも、94年、ふたたび六本木にavex直営でVelfarreができた。土地柄、芸能人も多く、低年齢化も目立った。アジア最大をうたったが、じつは倉庫のGOLDよりは小さい。だから、混み混みで、もはや踊るスペースも無く、手踊りのパラパラなんていう変なものができた。ここではavexが日本向けに新たに仕立てたBPM144という高速ピコピコ(オクターブ飛び)のユーロビートがかけられた。

しかし、みんなで踊る、なんていうのが、どんくさくなって、バブルの終わりを告げるかのように、96年末の年越しで閉店。とんがった連中は、自分の好みの音楽に特化したライブやクラブの箱に。avexは、当時から声優づいていて、その後、アニメとのタイアップ曲を当てる。これが、東京ブギウギからの顛末。踊る日本の戦後の終わり。