滝藤賢一、約1000人から選ばれ入った「無名塾」。“人生楽勝”と思いきや…全く通用せず「あの頃の不貞腐れ具合はヤバいっすね」

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2008年に公開された映画『クライマーズ・ハイ』(原田眞人監督)で注目を集め、映画『踊る大捜査線 THE MOVIE3 ヤツらを解放せよ!』(本広克行監督)、映画『ひみつのなっちゃん。』(田中和次朗監督)、『半沢直樹』(TBS系)、『グレースの履歴』(NHK)など多くの映画、ドラマに出演している滝藤賢一さん。

芸能界屈指のファッション通としても知られ、『服と賢一 滝藤賢一の「私服」着こなし218』(主婦と生活社)を出版。

「ヒトiPS細胞」の研究でノーベル生理学・医学賞を受賞した山中伸弥教授役を演じたドラマスペシャル『友情〜平尾誠二と山中伸弥「最後の一年」〜』が2023年11月11日(土)に放送される滝藤賢一さんにインタビュー。

 

◆小学生の頃から映画に興味

愛知県で生まれ育った滝藤さんは、小学生の頃から映画が好きでおしゃれにも興味があったという。

「落ち着きのない、まるで集中力のない、勉強もまったくしない子どもでしたね(笑)。『勉強しろ』と言われたことがないので、勉強もしない。運動会とか、縄跳び大会とか、走る競争とかで負けると母親に怒られる家庭でしたけど、父親に怒られたことは1回もないです。相当悪いことをいっぱいしましたけどね(笑)」

――小学生の頃から映画はよくご覧になっていたとか。

「見ていました。テレビで映画をやっていたので。今みたいにゲームとかYouTube、iPadがなかったですから、外で遊ぶか映画でしたね」

――小学生の頃からファッションにも興味があったというのはすごいですね。

「ただ、映画の登場人物の格好を真似したかっただけです。『これがサイコーにクールでおしゃれだぜ!』って信じて疑わなかったです。影響を受けやすいんでしょうね、きっと(笑)。

今でもそうですけど、やたら影響を受けますよ。『カッコいい!オレもああなりたい!』と思ってしまう。ジャッキー・チェンとか、エディ・マーフィー、マイケル・J・フォックスの真似をしてました」

――俳優になろうと思ったのは?

「高校生のときに進路を決めることになって、何かやりたいことを見つけないといけないじゃないですか。塚本晋也監督、(北野)武さん、(クエンティン)タランティーノとか、監督して自分も出るというスタイルに影響を受けて、『映画監督かな。とりあえず、東京だな』みたいな感じで、憧れだけで決めました(笑)。なにせ影響受けやすいですから。

東京に出たいけど、どこか学校に入らないといけない。それで、日大の赤本(教学社が出版している「大学入試シリーズ」)を見たら、芸術学部の問題がまったくわからないんですよ。解けるわけないですよ。毎日遊んでいるか、部活のバスケットボールしかしてないんだから。

多摩美の演劇の問題もやっぱり解けないから逃げたんです。それで、映画演出の専門学校に行くことにしたのですが、学校にはほとんど行っていませんでした。映画監督にはなりたいのに、その為の勉強はしたくないんですよね。酷いヤツでしょ(笑)。

だから、映画館をはしごしたり、家で1日に5、6本映画を見たりしていました。実技というか、1分位の短編は撮りましたね。しかもフィルムで。ゾンビ映画みたいなやつ。ホールトマトを口に入れて、自分でゾンビ役をやって、便所のドアの上から顔を出して(笑)。自分で撮って、自分で出た最初で最後の作品ですね(笑)」

――その作品をやってみていかがでした?

「その作品をやったからだけじゃないですが、理想と現実の違いを思い知らされましたね。映画監督ってそんな簡単になれるものじゃないんだと。じゃあ何が撮りたいのかって言ったら、撮りたいものが何もないんですよ。そりゃそうですよね。憧れだけで上京したんですから。

ブレブレでいたときに、塚本(晋也)さんの『バレット・バレエ』という映画のオーディションが雑誌に載っていたんです。塚本さんの『鉄男』とか『東京フィスト』が大好きだったので、受けたら合格してしまった。

2シーン、短いシーンだったんですけど、緊張で何もできなくて。『演技の勉強をしたい!』って思ったんですよね」

※滝藤賢一プロフィル
1976年11月2日生まれ。愛知県出身。1998年、仲代達矢さん主宰の「無名塾」に入塾。約10年間在籍し舞台を中心に活動。2008年、映画『クライマーズ・ハイ』で演じた新聞記者・神沢周作役で注目を集める。『外事警察』(NHK)でドラマ初レギュラー。映画『ゴールデンスランバー』(中村義洋監督)、映画『ミステリと言う勿れ』(松山博昭監督)、大河ドラマ『龍馬伝』(NHK)、『S -最後の警官-』(TBS系)、『俺のダンディズム』(テレビ東京系)、『探偵が早すぎる』(日本テレビ系)、『コタキ兄弟と四苦八苦』(テレビ東京系)に出演。2023年11月11日(土)にドラマスペシャル『友情〜平尾誠二と山中伸弥「最後の一年」〜』(テレビ朝日系)が放送される。

 

◆「無名塾」を受けることに

映画『バレット・バレエ』に出演したことで演技の勉強をすることにした滝藤さんは、「演劇界の東大」と称される「無名塾」を受け、約1000人の応募者の中から5人の合格者のひとりに。

「『バレット・バレエ』が19歳で、その頃『青年座』の人と出会ったんです。『青年座』には西田(敏行)さんや高畑淳子さんがいらしたので『青年座』を受けようと思ったんですが、年間60万円ぐらいかかるんですよね。

僕はそういうのも知らなかったから『そのお金って何のお金ですか?』って聞いたら授業料だと。踊りのレッスン、声楽とか授業が色々あるわけですよね。当時の僕は、『なんで俳優になるのに、踊りや歌の練習をしないといけないんだ?そんな時間は無駄だ。早く俳優になって映画に出たい!そもそもアルバイトしながら、そんな大金払えんわ!』と思い諦めました。若かったとはいえ、あまりの無知さにドン引きしますね(笑)。こんな考えでよく俳優になれたなー…。

それで、雑誌を見ていたら『無名塾』が出ていて。授業料は無料だとか、1000人受けて数人しか受からないって書いてあったから『どうせ受からねえだろうな』って思って、はなっから応募するつもりはなかったんですよ。

そうしたら、当時世界中旅していた僕の幼なじみがたまたま東京にいて、そいつに無理やり『出せ!出さなきゃ始まんねえだろう』って言われて応募書類を出したんですよね」

――その方は恩人ですよね。

「そうですね。彼がいなかったら出してなかったですね。逃げていたでしょうね、そこからも」

――受かったと聞いたときはいかがでした?

「『人生って楽勝だな。やったぜ。スターだぜ!』って思いましたよ(笑)。だって、仲代達矢さんがいて、役所(広司)さんがいて、入塾式に行ったら山本圭さんがいて、すごい世界に来たなあって」

――入塾してさっそく授業が始まるわけですよね。

「なめていましたね(笑)。やっぱり、若かりし頃って、何か変な自信がありますよね。名古屋から出てきて、『東京で1発当ててやるぜ』って。何で当てるかも漠然といるのに、『オレは、他のやつらとは違うんだ』って思いながらこの世界に入ったら、とんでもない(笑)。

まず朝5時に行かないといけないんですけど、5時に行ったのは、1日目だけでした(笑)。眠くて2日目から行かないですね。それで、入ってすぐに能登に合宿に行って、そこで先輩たちが岸田國士さんの『かんしゃく玉』を演じるんですけど、その舞台セットを作るところから始まるんですよ。

それで、机を運ぼうとしたら、演出家に『触るな!』って怒鳴られて。もう何をやっても怒られる。

仲代さんの稽古も週に2回みてもらえるんですが、1歩歩いたら『違う』、一言しゃべったら『聞こえない』、『振り向き方が違う』、『新聞の読み方が違う』という感じで、全否定ですね。

しかも同期はみんな同じ芝居をやるんです。ずっと、『紙風船』の冒頭2ページ。それを半年間。それで、『ああ、オレはまったく通用しないんだな』って。『無名塾』って、ほとんどの方が(身長が)180センチ以上ですし、皆さん声が低くて、いい男ばかりですからね。思い知らされましたね。鼻っ柱をへし折られました(笑)」

――でも、「演劇界の東大」と言われる「無名塾」に1000人の中から選ばれた5人ですから、すごいことですよね。

「そうでしょ!それだけでもすごいと思うんですよね(笑)。3年間は恋愛、アルバイト禁止の生活が始まったんです」

――滝藤さんは、ご両親が仕送りをしてくださったのですか。

「はい。20歳くらいから芝居を始めるわけだから、3年間ぐらいは芝居に集中、芝居のことだけを考えて生きていきなさいということですよね。その環境を与えていただいていたわけですから」

 

◆毎日ダメ出しされても…

毎日のようにダメ出しされても、悔しさがバネになってメンタルが強くなり、「いつか見ていろよ!」と思って耐えられたという。

「自分の子どもを見て、『ああ、時代が違うんだなぁ』と思うのは、『畜生!だったらやってやるよ!』とか『いつか見ていろよ』っていうのがありましたよね。厳しい3年間でしたが、おかげでメンタルも強くなったし、怖いものがないですもんね。

あ、仲代さんだけは怖いっすね。今、仲代さんが目の前にいたら、僕のツバを飲み込む音が聞こえると思いますよ、『ゴックン』って(笑)。でも、そういう存在の方がいるということは、自分にとって、とても幸せですよね」

――約10年間在籍されていたわけですね。

「10年って区切りですね。母親には『無名塾で1番になれないのに、外で通用しないでしょう』って言われていました(笑)。

ドラマとか映画を見て、『何だこの芝居。俺の方が全然できる』って思って、文句ばかり言っていました。でも、そう言いながらも『たしかにそうだよな。無名塾でいいポジションに入れないのに外で通用するわけがない』って(笑)。もう矛盾やら、葛藤やら、悔しいやらで、あの頃の不貞腐れ具合はヤバいっすね(笑)」

――でも「無名塾」はトップランクですから、仮に1番下だとしてもすごいことだと思いますが。

「まさに僕はその1番下ですよ(笑)。同期の真木よう子さんは、2年目でもうヒロインでしたからね。彼女がヒロインをやっているときに、僕は一言のセリフを同期3人で順番に言っていましたから。プライドずたぼろですよ(笑)ああいう経験って大事ですよね」

「無名塾」に在籍していた約10年間は、舞台を中心に活動し、多くの小劇場にも出演。ワークショップにも参加していたという。

「小劇場でもいろんな種類があって、『ザ・スズナリ』とか、『新宿シアタートップス』に立っていた俳優は、僕からみたら小劇場エリートですね(笑)。僕は無縁でしたよ。

芝居をする場は自分で見つけないと誰も用意してくれない。『無名塾』にいる限りは小さからず役をいただけて、8か月間は仕事があるんです。2カ月間稽古で半年間公演だから8カ月間。地方公演もあって、全150ステージぐらいあるので、全国各地に行けるし舞台にも立てる。

1年目でもギャラはもちろんもらえるから、本当に恵まれてますよね。その環境から飛び出すのは恐ろしかったです。映像の仕事も皆無でしたので、とにかく演技をしないと、芝居をしないとっていう思いで小劇場に立っていました。飢えた獣でしたね(笑)」

 

◆鬼気迫る演技が話題に

滝藤さんは、「無名塾」に在籍する傍ら、塩屋俊さんが設立した「アクターズ・クリニック」でワークショップにも参加。そこで出会った原田眞人監督の映画『クライマーズ・ハイ』に出演することに。

1985年に起こった日本航空123便墜落事故を題材としたこの作品で滝藤さんは、堺雅人さん演じる佐山記者とともに御巣鷹山に登り、事故翌日の惨憺たる現場の取材を続けるうちに精神状態が不安定になっていく社会部記者・神沢周作役を演じた。

「『無名塾』の旅公演から戻ってきては『アクターズ・クリニック』に通っていました。そこで原田(眞人)さんのワークショップを受けたんですけど、ボロカスでしたね(笑)。

『クライマーズ・ハイ』は、新聞社員50人のオーディションの予定だったのですが、オーディションの朝に事務所から電話が来て、『原田さんが違う役で滝藤を受けさせるって』って言われて、それが神沢役だったんですよね。

オーディションを受ける前に原作を読んでいたので、『マジで?』って思いました。だって当時の僕には神沢が一番魅力的でしたから」

――撮影が始まっていかがでした?

「怖いものなしじゃないですか。だって、あれでダメならもうダメですよ、この最高のステージでビビッて何もできないようじゃ、これからの僕の俳優人生は底が見えますよね。台本を抱えて寝ていました(笑)。

それで、暇があればスタッフルームに行って、事故当時の御巣鷹山の写真とか記事を読みまくっていました」

――完成した作品をご覧になったときはいかがでした?

「『今度こそ、オレはスターだ!』と思いましたよ(笑)。でも、なかなかなれないんですよ、スターには(笑)」

滝藤さんは、『クライマーズ・ハイ』の鬼気迫る演技が注目を集め、映画『踊る大捜査線 THE MOVIE3 ヤツらを解放せよ!』、映画『ゴールデンスランバー』、『半沢直樹』、『俺のダンディズム』など多くの作品に出演することに。次回は撮影エピソードや裏話も紹介。(津島令子)

ヘアメイク:山本晴奈
スタイリスト:山粼徹