ただ時間を知りたいだけなら、スマホやスマートウォッチでいい。

女性がわざわざ高級時計を身につけるのには、特別な理由がある。

ワンランク上の大人の自分にしてくれる存在だったり、お守り的な意味があったりする。

ようやく手にした時計は、まさに「運命の1本」といえる。

これは、そんな「運命の時計」を手に入れた女たちの物語。

▶前回:友達の結婚報告に心がざわつく34歳女。「おめでとう」と笑顔で返したが本音は…




Vol.10 夫への疑惑
ロレックス レディ デイトジャスト


「健太郎、ご飯いらないなら、もっと早く言ってくれればいいのに…」

彩は、ダイニングテーブルにセットしたカトラリーを片付け始めた。時計の針は、夜11時を指している。

昨夜も帰って来たのは日付が変わる頃だ。今日は木曜日だが、夫は今週まだ一度も自宅で夕食を食べていない。

『先に寝るね』

彩は健太郎にLINEを送り、寝室に向かった。2つ並べたベッドの1つには、2歳の息子、颯太がスヤスヤと寝息を立てている。

― 忙しいのはわかるけど、平日はほとんど会話してないよね。

颯太の隣に滑り込み、誰もいない隣のベッドを見つめた。

外資系のコンサル会社勤務で、3つ年上の健太郎とは、結婚5年目。

彩は、PR会社に勤務しており、今年35歳になる。

自分も仕事をしているから、健太郎が年齢的にも会社で忙しい立場に置かれているのは、理解しているつもりだ。

それに、子育てについては、車で10分ほどの場所にある彩の実家に協力を得ており、夫が不在続きでもなんとかなっている。

『ゴメン!明日は早めに帰るから』

LINEの返信の画面を見つめながら、彩は最近の夫婦関係を思い返していた。

健太郎は、土日になれば颯太を連れて公園に出かけたり、一緒に食事に出かけたりしてくれる。

彩に自由な時間を作ってくれることもあり、妻に気を使うことも忘れていない。

滅多に喧嘩もしないし、別に夫として不満はない。

しかし、子どもが生まれる前と後では、彩と健太郎の関係は明らかに変化している。


彩はベッドに横になりながら、iPhoneを手にとり、あるワードを入力した。

“レス”

検索結果をスクロールしていくと、レスポンスのことを指す説明に交じって、あるワードを見つけた。

それによると、病気などの特別な事情がないのに、1ヶ月以上性交渉がないカップルと定義されている。

― もう3ヶ月何もないんですけど…。

確かに、颯太が生まれてから、慣れない子育てや昼間の仕事の疲れから、2人で過ごす時間を取れなくなっていた。

それはお互いに敢えて避けているというよりは、意図せずタイミングを逃しているだけだと彩は思っていた。

しかし、最近は颯太も夜はしっかり眠ってくれるし、1年前、池尻大橋にこのマンションを購入してからは、駒沢大学の実家に預けることだって容易にできるようになった。

時間は作ろうと思えば作れるはず。

― はぁ…。まさかうちに限って…。

子どもを産むと、夫から女として見られなくなる女性が多いと聞くが、自分もそうなのかも、と思うと、彩は突然焦燥感に襲われた。




彩は、ガバッと起き上がり、夫の書斎に向かう。

彩は部屋に入り、机まわりを流し見た。

デスクの上にはA4サイズの白封筒があり、PCは電源が入れっぱなしになっている。

封筒をひっくり返すと、表面にはあるジムの名前が印字されている。彩が中身を見ると、入会書類の控えが入っていた。

― え?ジム?ジムに入会したなんて話、聞いていない。

胸のざわつきを制しながら、彩はPCのスリーブを解いた。

すると、画面にはレディースのロレックスが表示された。

― レディ デイトジャスト…。

かつて、子どもが生まれたら記念にロレックスを買いたいね、と話していたことを彩は思い出した。

しかし、ロレックスはどれも入手が難しい状態で、買えずにそのままになってしまっていた。

子どもが生まれてからすでに2年。今さら買おうなんて話は、2人の間には出ていない。

となると…。

― 誰かにプレゼントするのかしら…。まさか浮気…?

考え込む必要もなく、容易に察することができた。




翌朝。

朝食を終え、コーヒーを飲んでいるところの夫に彩は尋ねた。

「ねえ、健太郎。ジム入ったの?」

「ああ、会社の人に誘われてさ。最近ちょっと体が緩んできたからね」

焦る様子もない、自然な受け答えに、彩の気持ちはますますざわついた。

「私も、入りたいな。ジム。子ども産んでから体重完璧に戻ってないし」

「ああ、入ればいいよ。僕の入ったところは、家から遠いからどこか適当なところを見つけなよ」

健太郎からのそっけない答え。

彩は、自分は何を期待していたのだろうと自問した。健太郎が焦るところを見て浮気を確信したかったのか、あるいは、一緒に行こうと言ってほしかったのか?

「ありがと。体をちゃんと整えたいからピラティスにしようかな」

健太郎を問いただしたい気持ちを抑え、彩は言った。

しかし、健太郎はiPhoneに目を落としたまま、興味なさそうな様子だ。

画面をスクロールする手を止めることなく、誰かからのメッセージを確認しているように見える。

その時、彩が抱いている疑惑を肯定するかのように、健太郎は聞いてきたのだ。


「いいんじゃない?ところで、俺のパスポートって期限いつまでだっけ?」

彩はもう我慢がならなくなった。

「パスポート?誰とどこに行くの?私、知ってるのよ。あなたが私以外に女性がいるってこと」

「えっ?」

健太郎は、驚いた様子で、そのまま口をつぐんだ。

― 残念だけど、図星なんだ…。

健太郎の様子に、彩はがっくりと俯いた。

だが、次の瞬間、彩の予想に反して、いきなり健太郎は笑い出した。

「ない!ない!浮気とか、ないから!

パスポートは颯太と3人でハワイに行こうと思って聞いただけだよ」

「えっ?」と聞き返したきり、彩は絶句した。

「ロレックスを買おうよ。ちょっと遅くなっちゃったけど、子どもが生まれた記念に。日本だと入手できないけどハワイなら買いやすいみたいだよ」

「じゃあ、パソコンに表示されていた時計って…私用を見てくれていたってこと?」

健太郎は、2年前の話を忘れていなかったのだ。




8月下旬。

彩は、家族でハワイを訪れている。

ハワイは何度か来ているが、子連れハワイはまた今までとは違う楽しみがあると彩は感じていた。

毎回子連れで外食は大変だからと、健太郎がキッチン付きのトランプ・インターナショナルを予約。

到着した一昨日そして昨日は、ラナイとプールサイドでほとんどの時間を過ごし、とにかく観光よりもゆっくり過ごすことを優先している。

「やっぱハワイって空気が気持ちいいね」

観光客で賑わうアラモアナセンターを、2人はベビーカーを押しながら歩いていく。

ハワイでロレックスを正規で扱っている店舗は2つ。そのうちの一つにこれからロレックスを見に行くところなのだ。

健太郎は、この日のために日本にいる時から事前に電話とメールでやり取りをしていたらしい。

「いくらハワイでも、いきなり行って買うことができるとはとても思えない」という彼は予測していたのだ。

しかし、事前準備をしたからといって、確実に入手ができる保証があるわけではない。

そもそも彩と健太郎は、それぞれ時計を手にしたいのだ。ハワイに入ってくる時計は本数に限りがあり、そのうち半分以上がお得意様への予約販売で売り切れるという噂。

2本買い求めることなどできるのだろうか、と彩は心配しながら入店した。

「彩、これは?レディ デイトジャスト。こういう王道のモデルは、日本じゃまず手に入らないだろ」

健太郎に促され、手につけてみた。




ロレックスらしさ漂うフルーテッドベゼルに、シルバーの文字盤がとてもクールな印象だ。ブレスレットは、ロレックスの中でも最もシンプルで堅牢な印象の3列のオイスターブレス。

サイズは彩の希望通りの28ミリだ。

いかにもというよりは、さりげなくロレックスらしい、といった感じだ。

「何でもいいって思ってたけど、初見でこの時計に会えるなんて」

大袈裟だが、この時計はハワイで自分を待っていてくれたのだ、と彩は思った。

「じゃあ、これにしよう」と健太郎。

ところが。

残念なことに、健太郎の時計は買うことはできなかった。健太郎が欲しいと言っていたのは、サブマリーナーだが滞在期間中に入荷の予定はないというのだ。

「仕方ないよ。とりあえず、彩だけでも買えてよかったよ」

自分のは入手できないのに、健太郎はやけに嬉しそうだ。

― わざわざハワイに来たのに私だけなんて、申し訳ないな。

そう思いながら店を後にした。

「健太郎、ディオール カフェでお茶してこうよ。コスメも見たいし」

颯太は買い物中もベビーカーでぐっすり眠っていて、まだ起きそうもない。

「そうしよう。で、その後だけど、別の店も見に行っていい?」

「え?別の店?」

彩が聞き返す。

「子どもが生まれた記念に時計を買うわけだから、同じブランドで時計を買う必要もないのかな?と思って」

先ほど彩がロレックスを手にしたベン・ブリッジ・ジュエラーはロレックスの正規代理店だが、健太郎によると同じセンター内にもう1店舗ベン・ブリッジ・タイムワークスという高級時計専門店があるという。

「ロレックスよりもIWCとかゼニスの方が俺には似合うかなって。

例えば、ゼニスのクロノマスターとかいいなーと前から思ってたんだよね。なんなら、パテックがあればそっちの方がいいな。いずれにせよ、ちょっと予定より高くなっちゃうけどね!」

健太郎はカフェでお茶をする話などすっかり忘れ、ベビーカーを押しながら意気揚々と歩き出した。

― あれ?もしかして、健太郎は、もともとそっちが本命だったんじゃない?

彩にはロレックスでオーセンティックなモデルを買い与えておき、自分は狙っていたブランドの時計を手に入れるという健太郎の入念な計画に、彩は吹き出しそうになった。

― ま、いっか。お茶は後ででも。

ハワイに来たおかげで、彩自身は時計を買えたわけだし、ここ数ヶ月思い悩んできた夫婦としての距離も縮まった。

「健太郎、ハワイに来てよかった。時計、ずっと大事にするね!」

彩は、健太郎の腕に手を絡めた。

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