レストランに一歩足を踏み入れたとき、多くの人は高揚感を感じることだろう。

なぜならその瞬間、あなただけの大切なストーリーが始まるから。

これは東京のレストランを舞台にした、大人の男女のストーリー。

▶前回:同棲3年の彼と喧嘩し、寝室の扉を閉めた女。翌日男からの思わぬ誘いに…




Vol.32 真知(28)「うちの夫は、淡白な仕事人間だから…」


「ねえ真知、飲み直さない?」

金曜22時すぎの大手町。

同期の結子が私の顔を覗き込んで聞いてきたので、私は答える。

「うん、賛成!今日は上司たちに気をつかって、なんだかんだ疲れたもん。最後にパーッと発散したい」

私と結子が勤めているのは、化粧品メーカーの宣伝チーム。久々の飲み会が、今解散したところだ。

現在入社6年目の私たちは、華やかさと泥臭さの両面を持つ宣伝の仕事を、協力しながらなんとか進めている。

「真知がよければ、ウチでどう?神保町だからタクシーですぐよ。旦那もいるけど」

「いいの?迷惑じゃなければ、ぜひ」

結子の夫・康介さんとは、結婚式で会ったきりだ。

しかし結子から頻繁に話を聞いているから、勝手に親近感を覚えている。

タクシーはほんの数分で、結子の住むマンションに着いた。

部屋にあげてもらうと、康介さんが笑顔で出迎えてくれる。

「真知さん、ようこそ!いつも結子がお世話になってます。いっぱい楽しもう」

見れば部屋の真ん中にあるテーブルに、おつまみが用意されている。

ガラスのプレートにきれいに盛り付けられたチーズや生ハム、チョコレート。おしゃれなレストランに来たかのようだ。

「すごい!これ、康介さんが準備したのよね?」

「そうだよ。俺、週の半分は結子とこうやって晩酌してるから、上手になったんだ」


結子と康介さんとのやりとりは、微笑ましい。

会話の端々から、2人があらゆる日常を共有していることが伝わってくる。しかも康介さんは、手作りカクテルを何種類も作ってくれる腕の持ち主だった。

― 結子は、幸せだな。週の半分はこんな楽しい夜を過ごしてるのか。

時はすごいスピードで過ぎ、気づけば0時近くになっていた。

「え、こんな時間。私そろそろ帰るわ」

慌てながら言うと、2人が似たようなハの字眉で見つめてくる。

「ほんとだ!気づけなくてごめん…!」

「申し訳ない。旦那さん、心配してるよな、こんな遅くなって」

そっくりな表情に、私は思わず吹き出した。

「大丈夫、大丈夫。うちの夫は淡白な仕事人間だから。何時に帰っても心配されないの」

2人は「なら駅かタクシーまで送るよ」と言ってくれたが、私は丁重に断った。

「お邪魔しました」

「いいえ。また来てね!心配だから、おうち着いたら絶対連絡して!」

屈託なく笑う結子の顔が、いつになく満たされて見える。

ドアが閉まると、私はひとりため息をつく。

「理想的な夫婦像」を目の前にして、気持ちがしおれていた。




「ただいまー」

鍵を回してドアを開けると、廊下もリビングも真っ暗だ。ただ夫・夏樹の部屋のドアからは光が漏れている。いつものことだ。

夏樹の部屋のドアをノックしてから開き、「ただいま」ともう一度言う。

「おお、おかえり」

夏樹は顔を上げて笑顔を見せた。

「遅くなりました。今日はね、結子たち夫婦と部屋で飲んでたんだ。ほら、同期の結子」

「ああ、結子さんね」

「結子たち夫婦って、すっごい仲いいのよ。晩酌もしょっちゅうするんだって。今日も旦那さんが、いろんなカクテルを作ってくれたの」

「そう。いいね」

そのときSlackの通知音が鳴って、夏樹はPCに視線をやった。PCの周辺には、図面や模型が散らばっている。彼は一級建築士で、最近多忙なのだ。

― この人、絶対話聞いてない。

「…話しかけてごめんね。お仕事頑張って」

私は引きつった笑顔で言い、そっとドアを閉じる。



夏樹と出会ったのは、大学3年生のとき。

彼は1つ年上で、4年生だった。5年交際して、3年前に入籍した。

だからもうマンネリで当然なのかもしれないが、私たちには、結子たち夫婦のような楽しい時間はもうない。

彼が素っ気なくなったのは、ここ1年のことだ。

理由は、明確にある。

夏樹はこれまで師匠の下で働いていたが、1年前から自分の名前で仕事を引き受け始めた。いわゆる勝負の時期を迎えたのだ。

気づけば、じゃれあったり、一緒にお笑い番組を見たりする時間はゼロになった。そういう時間を過ごすくらいなら、夏樹は仕事をしたいのだと思う。




シャワーを浴びて、寝室に入る。

ひとりで寝るのにも、もう慣れた。夏樹は深夜の方が作業がはかどるようで、毎晩深夜2時すぎまで働いている。

― …この生活って、夫婦って言えるのかな。

そういえばこの1年、ろくに2人でお出かけをしていない。外食すら、していない。

夏樹は平日の夕食はいつも仕事場ですませてくるし、休日も忙しそうで「簡単なものでいい」と言うのだ。

妻として、頑張っている彼の働き方を理解すべきだとは、わかっている。

でも、「前の夏樹が恋しい」という気持ちが拭いきれない。

― だってこのままじゃ、私たち……別々で暮らしても変わらなそう。

結子夫妻の明るい笑い声がまだ耳の奥に残っていて、ムズムズする。

「…どうにかしないと!」

私は暗闇のなかで上半身を起こし、スマホに手をのばした。

― なにか、変わるきっかけを用意しよう…!




翌週の土曜、19時。

私は夏樹と2人で『銀座レカン』に来ていた。久々のフレンチデートを、企画したのだ。

ただし緊張してうまく誘えなかったわたしは、「同僚の結子からチケットをもらったの」とウソをついて夏樹を誘った。

本当は、普通に予約しただけなのに。

ちなみにこのお店を選んだのは、結婚前に「いつか行きたいね」と言い合っていた憧れのレストランだからだ。夏樹は、絶対に忘れているだろうが。




「乾杯!」

久々の乾杯に、手が震える。

「なんか、照れるな」

「うん…そうね」

夏樹もなんだか落ち着かない様子だったが、料理を楽しむうちに口数が増える。

キャビアや毛ガニを使った、芸術的な料理。日常から解放されるような美食。

気持ちが徐々に温まって、会話のテンポもアップする。

そしてメインの「仔羊のロースト」を味わう頃にはもう、付き合った当初の思い出話で笑い合っていた。

私は安心した。

― ああ、なんだ。こういう時間がとれれば、夏樹はいつでも元に戻ってくれるんだ。それがわかっただけで、もういいや。

涙が出そうになり、慌ててお手洗いに立つ。



ほろよい気分でレストランを出て、タクシーに乗った。

その途端、さみしさに襲われる。

いい夢から目覚めたくないときのような気分だ。

― ああ、現実に戻りたくないな。今日は久々に楽しかった。

タクシーは容赦なく、マンションのロビーの前で止まる。エレベーターで9階に上がり部屋に入れば、もういつもの日常だ。

しょんぼりしながら玄関で靴を脱いだとき、夏樹が急に深刻そうな声で言った。

「ごめんね、真知」

「え?」

「…俺の働き方とか、生活リズムとか、話しかけられたときの態度とか。全部、ごめん」

「えっと…」

「俺ね、仕事にかまけて、真知のことを後回しにしていた。自覚してるよ。

こんな夫婦生活で真知が幸せなわけないってわかってたのに。…俺、だめだな」

動揺しているのか、まつげが小刻みに震えている。

「真知が許してくれるのに甘えて、仕事ばかり優先して、すっごい勝手だった。

いつか改めようと思ってたけど、それすら後回しにしてた。だから…今日は、きっかけをくれてありがとう」

「え?いや、まあ今日は、結子がチケットをくれたからさ…」

すると、夏樹は小さく微笑んで、ソファに腰掛けた。

「チケットなんてウソで、真知が全部企画してくれたんでしょう?さすがにわかるよ。レカンは、いつか行きたいって話してたお店だったし」

「な…バレてたの…。それに昔の話、覚えててくれたんだ」

そのとき、私は気づく。

ソファの前にあるテーブルに、Tiffanyの紙袋が置かれていることに。

「それって…?」

「今日の食事代のお礼と、それから、今までのお詫び。

あと…これから真知と楽しく生活するっていう、約束の証として」

差し出されたティファニーブルーの箱。開けると、ネックレスが入っている。




「…そんな。すっごいうれしい…いつ準備してくれたの?」

「真知に食事に誘われたとき。俺、すぐにピンときたんだよ」

夏樹の声が、少し震えている。

「結子さん夫婦の話を、羨ましそうにしてたから、真知は耐えきれなくなって、アクションしてくれたんだなって。

…俺が行動をとるべきなのにって、かなり反省した。モノで埋め合わせるわけじゃないけど、形で示したくなったから」

夏樹は呼吸を整えて、私の目を見る。

「本当にごめん。本当に。

これからは時間を決めて仕事する。あと、結子さんたちみたいにうちも、晩酌しよう」

「ありがとう…」

「まあ俺、結子さんの旦那さんみたいにカクテルは作れないけど…」

― あれ?康介さんがカクテルを手作りする話…。あのとき、ちゃんと聞いてくれてたんだ。

私は、ハッとした。勝手に聞いてないと決めつけた覚えがある。

「ねえ、夏樹」

そうだ、私だって、悪いのだ。

夏樹への不満を数えるばかりで、まったく寄り添っていなかった。

夏樹も私のせいで、いろんな嫌な思いをしていたのかもしれない。

「私も、ごめんね…」

「いいから。今日からやり直そう。さっそく晩酌しようよ、今ワインとおつまみ持ってくるから」

夏樹は立ち上がると、私の頭をゆっくり撫でてから、キッチンに行った。

頭に残った、夏樹の手のひらの感覚。久々すぎて、ちょっとくすぐったい。

今夜を機に、たぶん、私たちは変われる――。

見慣れたリビングの景色が、いつになくキラキラして見えた。

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