カルチャーを切り口に街を見つめ、時代を彩るキーワードを盛り込みながら、そこに生きる人々のリアルをシニカルかつユーモラスに描く渋谷直角さん。

自身も長く住んでいたという祐天寺を舞台に、この街で起きていたかもしれない“男女の物語”を書き下ろしてもらった。


古着女子。祐天寺の深夜3時。


リーバイス501、チャンピオンのリバースウィーブのスウェット、ニルヴァーナのバンドTシャツといったアメリカ古着が何十万円、何百万円と異常な値段になっているのはここ数年のことだ。

以前はそんなボロボロのジーンズやスウェットを喜んで買っていくのは日本人だけといわれていたが、今は情報が世界中でシェアされていて、どこの国でも古着を集める人がいる。

ちなみに現在、そういったアメリカン・ヴィンテージの世界一のコレクターだと呼ばれている人はパキスタン人らしい。もはやアメリカ人でも日本人でもないのだ。




祐天寺は昔から美容院の街、といわれているが、古着屋も目立つ。

美容師やアパレル勤務の人間が多く住んでいることもあり、そういった人たちが仕事終わりや飲みの後でも買い物できるように午後3時とか5時からオープンして、夜間に営業するお店もこの街では珍しくない。

近年の古着ブームにより、古着屋はさらに増えている印象もある。

中目黒のようにギラギラせず、学芸大学ほど人も多くないこの街は、どこか適当でゆっくりとしたタイム感で動いている。

暖奈という古着好きの女性と出会ったのも祐天寺だった。ハルナ、と読むらしい。

最初は『博多ダイナー琉』という店のカウンターでひとりで食事をしていたとき、隣に座っていたのが彼女だった。

僕のスマホに貼っていたステッカーを見て、これ、どうしたんですか?作ったの私の友達なんです、と声をかけられたのだ。

ゆるいタッチのとぼけた顔をした天使が描かれたイラストのステッカー。

僕はこれを友人からお土産にもらった、だからこのイラストの人は知らないんだ、と答えると、暖奈は最近大阪でポップアップショップをやっていたみたいだから、そこで買ったのかもとほほ笑んだ。

話しかけられるまでまったく意識していなかったが、よく見ると暖奈が着ているカバーオールにはハートの形をした真ちゅうのボタンが付いている。明らかにヴィンテージだ。

ずいぶん珍しいの着てるんだね、と言うと暖奈は驚いた表情をし、嬉しそうに身を乗り出す。

知ってます?これ、カーハートの1920年代のやつなんです。1920年代?100年以上前?はい、かわいいですよね。

あまりにあっさりと言う暖奈に、いったいいくらするんだ、と聞きたくなったが、初対面で着ている服の値段を聞くのも野暮だ。

ヴィンテージが好きなの?とだけ聞くと、暖奈はそういう話をしたかったのか、次々と持っているヴィンテージアイテムの話を嬉しそうにしだす。そのテンションに、こちらは正直困ってしまった。

僕は、カーハートのハート型のボタンが付いているのはかなり珍しく、そのボタンひとつだけでも1万円くらいの値段で取引されているということをたまたま知っていただけで、あとは若い頃に好きだった古着の知識、90年代に『Boon』だとか『asayan』だとかを読んで得ていた情報くらいしかない。

適当に話を合わせていると、暖奈はだいたい満足したのか、ひさしぶりにこんなに古着の話できた、嬉しい、としみじみする。

そしてLINEのメッセージを見るなり、やばい、もう行かなくちゃと会計をして出ていった。


暖奈との再会。お互いを知る、ふたりの時間


それだけの話だと思っていたのだが、暖奈と偶然の再会をしたのはその1週間後だった。

目黒通りにある『スカーレット』という店。80年代のわたせせいぞうの漫画『ハートカクテル』に出てくるような、当時はスタイリッシュだったであろう外観がそのまま残っている。

グリーンのストライプに英字で「SCARLET」というロゴが描かれた軒先テントも、注目して見ればかわいらしいデザイン。




ただ、店先には「レストラン」と書かれているけれども、実際はレトロな風情のカラオケスナックである。

この店を貸し切って、知り合いのアーティストが誕生日パーティーをやるというので顔を出したのだ。そこに暖奈も遊びにきていた。

お互いが存在に気づいてしばらく見つめ合った後、暖奈の方からこの間、話しましたよね、と駆け寄ってきてくれた。

うん、そのカバーオールのことを、と返すと、暖奈は恥ずかしそうに、そうだ、こないだもこれ着てたんだ、と苦笑いをした。

暖奈はこの店を貸し切りにしたアーティストとは直接面識がなく、友人に誘われて一緒に来たのだという。

その友人は知り合いが多く、方々に挨拶しにいくものだから、ひとり手持ち無沙汰になっていたようだ。だから僕の隣に座り、また話してもいいですか、知り合いいなくて、と言った。

今度は古着の話ではなく、彼女のことを聞く。下北沢の古着屋で働いていること。家は下馬の方で、実家暮らし。職場へは自転車で通勤していること。家にはパグがいて溺愛していること。

祐天寺の話にもなる。『Break Beats』という名前のラーメン店が美味しいこと。『SEIN』というアンティークショップで買った北欧の古いスタンドライトが気に入っていること。東横線のダイヤが変わって、電車の祐天寺通過が増えたのが軽くストレスだということ。

暖奈はよく喋る。話のキモの部分になると目を大きくして僕を見つめてくるのがかわいい。が、少し緊張してしまう。

暖奈に僕のことも聞かれたが、雑誌関係の仕事、編集者じゃない、とだけ答えて、詳しくは適当に濁した。

これは誰に対してもそんな感じにしている。漫画を描いている、なんて迂闊に答えたら、『ONE PIECE』だの『鬼滅の刃』だのの話をされてしまう。

それは僕とは何の関係もない世界の話で、聞くのも話すのもひたすら億劫でしかない。


ふたりでこっそり抜け出したが…。彼女から感じる男の存在


アーティストの友達とおぼしき若い男の子が、カラオケで布袋寅泰を入れて、モノマネで歌いだした。あまり似ていないが、周囲は大ウケして、スピーカーの音量を上げている。

さらにその男の子はメロディーに乗せて「あるある言いたい♪」などと歌い出したので、ちょっと聴いてられない。僕は暖奈にこっそり、「他のお店に行かない?」と誘った。

『スカーレット』から目黒通りの反対側に渡り、中央中通りに入る。

道の途中にある、どうってことのないバーに暖奈と入った。暗い店内で、スティーヴィー・ワンダーの80年代のアルバムがかかっている。似てない布袋を聴かされるよりはるかにマシだ。

テーブル席に座りオーダーを済ませると、僕は以前聞けなかったことを聞いてみた。

そのカバーオール、いくらしたの?

暖奈は数秒、戸惑った顔をしたが、これ、友達のを借りパクしてるんです、と苦笑まじりに言った。だから正確な金額は分からないけど、相当高いと思う、と。おそらく、恋人のコレクションなんだろうな、と僕は邪推した。

あの日、帰って軽く調べたら、コンディションの程度によるけれど70万円は軽く越える価格帯のものだった。デニムの色の残り方を見ると100万円以上かもしれない。

ただの友達が、そう易々と貸してくれるものではないだろう。暖奈は、でも問題ないんです、私も同じくらいはソイツにお金貸してるから、という。妙にキナ臭い話になってきた。

ギャンブル好きとか?と聞くと、それはたぶんしてないけど、浪費グセが激しく、いつも金欠なのだと言う。返してもらえないまま、ちょこちょこと貸していったのが相当たまっている、と。

何してる人なのかを聞くと、絵を描いているそうだ。つまり、売れないアーティスト崩れの恋人か──。この話はあまり楽しくない。

僕は、知人から聞いた親戚が宝くじの高額当せんに当たった後、親族関係が大変なことになったという話をして、微妙に話題をずらしながら、またどうでもいい会話を楽しもうとした。

暖奈も合わせて、古着屋界隈のくだらない揉め事のようなバカ話をしだした。

ふたりで一番笑ったのは、暖奈が働くお店の同僚の男の子が飲み屋でおじさんと旨いカレー屋はどこかという話題で口論となり、何時間もケンカした後、なぜかそのおじさんの家に泊まっておじさん手作りのラーメンを食べたというよく分からない話だった。


深夜3時、彼女のもとに届いたLINE。送り主の正体は…


バーは夜中の3時に閉店になって、店を出た。暖奈から楽しかったですね、と手を繋いできて、流れるようにそのままキスをした。

ふたりともだいぶ酔っている。たぶん、お互いが、飲んでるときにキスをしたいと思っていて、それだけが目的の、体重の乗ったキスだった。




バーの数軒隣にある小さなスーパーのシャッターに寄りかかり、しばらく暖奈と抱き合って唇を重ねながら、僕はこの後どうしようか、酔った頭の中でぼんやり考えていた。

── LINEの音がする。深夜3時に?

唇が離れ、暖奈がスマホを取り出して見る。申し訳ないが、その送信相手の名前が見えてしまった。

帰ろうか、と僕は言って、駒沢通りの方へ歩き出す。暖奈も無言でついてくる。その間も、腰に手を回し、唇を重ねながら歩いた。まだお互い、酒と余韻が残っていたからだ。

駒沢通りでタクシーを拾い、暖奈を乗せる。またね、と暖奈は言ったが、僕は無言で口角を上げるだけにしておいた。

暖奈のスマホの画面から見えた相手の名前は、漫画家だった。どこかの編集部の飲み会で一度話したことがある。あからさまに僕のことを下に見ているような物言いで、感じのいい人ではなかった。

でも、あの人はそんな、お金に困っているようなランクの漫画家ではなかったはずだが。

足元に違和感があった。ハート型のボタンを踏んでいたのに気づく。カーハートのものだ。拾い上げると、そのボタンには大きな傷が入っている。今ついた傷か、元からなのか。

いずれにせよ、この状態では、大きく価値が下がるだろうと思った。


■プロフィール
渋谷直角 1975年、東京生まれ。漫画家として活躍中。『奥田民生になりたいボーイ出会う男すべて狂わせるガール』『デザイナー渋井直人の休日』はともに映像化。現在『ビッグコミックオリジナル』にて『サテンdeサザン』連載中。

Photos/Masashi Nagao, Edit/Ayako Kimura