初登板でノーヒットノーランを達成した元中日・近藤真市氏【写真:共同通信社】

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「お前、今日投げてみるか」初登板ノーノーの近藤真市氏、先発は当日に言われた

 岐阜聖徳学園大学硬式野球部で監督を務める近藤真市氏は中日1年目の1987年8月9日、巨人戦(ナゴヤ球場)で日本プロ野球史上初の1軍公式戦初登板でノーヒットノーランを成し遂げた。高卒ルーキーの18歳左腕が、とてつもないことをやってのけたが、舞台裏ではいろんなことがあった。当日に先発を通告され劇的ドラマがスタート。「まず試合開始までが長かったです。全然、時間が過ぎないなって……」。試合前のブルペンでの大石友好捕手との会話では、つい言ってはいけないことを口走ってしまったという。

 近藤氏が先発を言われたのは、その日の中日練習終了後の午後4時すぎだった。「(投手コーチの)池田(英俊)さんに『お前、今日投げてみるか』って言われたんです。えーって思いましたよ。『僕でいいんですか』って言いましたから」。想定していない事態だった。「もともと前日に1軍に呼ばれたのも、僕は最初、ただの手伝いだと思っていたんです」。当時は2軍の若手投手が1軍練習に参加してバッティング投手を務めていたからだ。

「だから1軍に行くぞと言われた時も、バッティングピッチャーのつもりだったんですよ。そしたら1軍登録されて……」。近藤氏は8月4日のウエスタン・リーグ南海戦(ナゴヤ球場)で2安打完封勝利をマークし、111球を投げていた。2軍では7試合に登板して、3勝をマークしていたが、8月9日の巨人戦はそこから中4日。「そんなに体が張っているわけでもなかったんで、特に体的には問題なかったですけどね」と言いながらも、やはり驚きの先発通告だった。

 だが、すぐに戦闘モードに切り替わったという。「じゃあ、やったろうって感じで気合が入りましたよ。緊張はめちゃくちゃしていましたけどね。ジュニアオールスター(1987年7月24日、後楽園球場)の時に(巨人外野手の)井上(真二)さんにホームランを打たれた。ジャイアンツの選手に打たれたってイメージが僕の中にすごくあって、よし、やり返さなアカンという気持ちもありました」。打倒・巨人は星野中日の旗印。巨人戦ということで闘争心もさらに高まった。

 ただ、そこからが長かった。「試合の30分前にブルペンに行っているはずですが、それまで何をしていたか記憶にないんですよ。『先発は誰にも言うなよ』って言われていたので、ドキドキしているのに(チームメートにも)誰にも言えない。何にも言えない。黙っておかないといけない状況だったので、落ち着きがなかったとは思います」。

「おっ、落ちたって感じ」試合で投げたことがなかったフォークを4球投げた

 ナゴヤ球場の一塁側には当時、近鉄が公式戦を行う時に使う“近鉄ロッカー”と呼ばれるものがあった。「近鉄が来ない時は、僕ら若手が使わせてもらっていたんです。主力は球場の中のロッカーを使うけど、僕らにはなかったんでね。おそらくあの時も僕はそこでウロウロしていたんじゃないかなと……」。誰にも言えないまま、大石捕手との打ち合わせも特になかったそうだ。

「僕がブルペンに行った時に、大石さんも僕が先発ってわかったんじゃないですかね。ブルペンでは最初(バッテリーコーチの)加藤(安雄)さんが受けていたんですけど、そこに大石さんが来て『お前、球種、何があるの』って言われましたから」。その時のことだ。「『真っ直ぐとカーブ、それとフォークです』って言っちゃったんです。フォークなんて(試合で)投げたこともなかったのにね」。何と大胆にも持ち球以外を申告していたのだ。

「球種が少ないのでフォークの練習はしてましたよ。けど、全然落ちないんですよ。(享栄高から同じ年に中日入りした)長谷部(裕捕手)がいつも『お前のフォーク、全然落ちんな』って言ってましたから」。そんなレベルのフォークを使いこなせるように言ってしまった。「試合で、フォークのサインが4球、出ました。あっ、出た、どうしようですよ、こっちは」。もうやるしかない。「とりあえず挟んじゃえって感じで投げました。いけぇ、思いっ切り振れぇってね」。

 その結果はよく覚えている。「篠塚さんのファウル、原さんの2打席目の三振、中畑さんの2打席目、鴻野淳基さんのセカンドゴロエラー、あれがフォークです。落ちたというかチェンジアップみたいになった。原さんと中畑さんのヤツはちょっと落ちましたね。おっ、落ちたって感じでした」。大偉業の裏側では、こんなハラハラドキドキのボールもあったわけだ。(山口真司 / Shinji Yamaguchi)