次期大統領選への出馬を表明しているトランプ氏の動向次第では、2度目の「南北戦争」を招いてしまうのか(写真:ミリアム・アラルコン・アビラ/Bloomberg)

アメリカ、そして世界に衝撃を与えた「Qアノン」扇動による2021年1月に発生した前代未聞の連邦議会襲撃事件。次期大統領選への出馬を表明しているトランプ氏の動向次第では、再びこのような事態を招くのか。さらには2度目の「南北戦争」を招いてしまうのか。

世界中で「内戦」が急増している現状とその原因、アメリカでも内戦が勃発する潜在性が高まっている状況について、アメリカを代表する政治学者が読み解き、警告した『アメリカは内戦に向かうのか』(バーバラ・F・ウォルター著)を翻訳した井坂康志氏が同書のポイントを紹介する。

それはある日突然やってくる

「川一つで仕切られる滑稽な正義よ。ピレネー山脈のこちら側での真理が、あちら側では誤謬である」(パスカル『パンセ』)


内戦はある時突然火を噴く。少なくともそのように見える。しかし、内戦研究の蓄積を用いれば、その兆候を事前に知ることは可能である。

なぜなら、内戦にはパターンがあるからだ。誰もが目にしているのに、誰も認識していない「急所」はどこにあるのか。

バーバラ・ウォルターは、名医がいくつかのポイントから病状全体を割り出すように、世界で日々起こっている事象から、戦慄すべきアメリカ内戦危機への診断を行っています。

この本には尋常ならざるリアリティがあります。その記述の多くは、一人称で書かれています。通常の学者の作法からすれば、きわめて「野心的」です。本書の魅力として最初に指摘すべき点かもしれません。

『ニューヨーク・タイムズ』等の主要メディアでの賞を多数受賞していることや、Amazonの原書に1200という驚異的な数のコメントが寄せられ、高評価を得ていることは、きわめて広汎にそのリアリティが共有された証しとも言えるでしょう。

そのためのアプローチとして、多くの専門研究者が長年にわたって蓄積してきた叡智の粋を垣間見ることができます。それは読み手に巨人の肩の上から現代世界を俯瞰する感覚を与えてくれます。

その一つに、「アノクラシー」があります。アノクラシーとは、専制支配と民主主義の中間概念なのですが、複数の信頼度の高いデータ・セットと「ポリティ・インデックス」という指標を用いて、内戦の危険水域(魔の中間地帯)の所在が示されています。

もちろん、危険水域に至ったからと言って、すべての国や社会が内戦に突入するわけではありません。それは、河川の水位が一定以上に達したからと言って、常に洪水の被害がもたらされるわけではないのと同じです。

けれども、そこには内戦勃発を予期するうえで顕著なパターンが見出せると主張されています。これは、内戦危機の「急所」と言ってもよいポイントなのですが、いくつかあるうちの一つにあえて目を向けるならば、「格下げ」があります。

フィリピンやユーゴ、インド、ジョージアなどの例が取り上げられていますが、格下げとはある階層の政治社会的地位が、何の合理的理由もなく喪失される状態を指します。長い年月その土地に暮らしてきて、しかるべき地位や尊敬、権威のようなものを培ってきたのに、気づけば国外から異なる民族や宗教の人々が徐々に流入し、やがて人口比が逆転して孤立し、二級市民に甘んじるようになっていく。簡単に言えばそのようなことです。その状態が、内戦の発火点になる可能性がきわめて高いというのです。そのような人々を著者は「土着の民」と呼んでいます。

このような、内戦パターンにおける急所が、アメリカにおいても著しく見られるようになった。この点が著者の危惧の際たるポイントだと思います。実は、民主主義先進国においても、「土着の民」は多数存在しています。この観点からすれば、トランプがなぜあれほどまでに熱狂的支持を集めたのかが見えてきます。「格下げ」された人々の癒やしがたい怨嗟や憎悪は容易に暴力に転ずるからです。

危険な「仕掛人」たち

もう一つ、現代の特徴は、内戦への展開スピードのすさまじさです。

現れてわずか数年で議席獲得はおろか、時には政治権力中枢にまで一挙になだれ込んでいくこともめずらしくはない。その典型を著者はトランプ旋風の中に見出すわけですが、彼のような存在は、あらゆる内戦に一貫して作用していると指摘します。彼らは「暴力対決仕掛人」あるは「民族主義仕掛人」と呼ばれています。内戦の総合プロデューサーです。

彼らは、分極の綻びを見つけ出し、そこに憎悪の固いバールをねじ込んで、SNS等をフル活用して巧みに怒りを拡散することで、政治権力を掌中に収める。要は「われわれ」と「あいつら」を仲違いさせる「心理的壁」を見つけ出し、対立を作り出すのです。

仕掛人は、政治家ばかりとは限りません。ビジネスパーソンであることもあるし、メディアのパーソナリティ、ネット上のオピニオン・リーダー、さらにはタレント、あるいはこれといった肩書を持たない人。要は、どんな人であっても仕掛人にはなりうるのです。

「捏造された」現実はもはやなじみの光景

ちなみに、分極の諸相は見かけほど単純なものではありません。イデオロギー、民族、宗教・宗派などは後付けの口実みたいなもので、それらはあくまでも人為的です。

一例として、おそらくYouTubeやTwitter、TikTokなどを日常的に見ている方は、選挙や国会論戦の時期に、実にきわどい切り取られ方や編集を施された動画・投稿を目にしたことがあるはずです。時には解説の形式をとった激烈なテロップの類も目にしたことがあるでしょう。それら「編集済み」、悪くすると「捏造された」現実はもはやなじみの光景になっている。

これは全世界的傾向ですから、誰もが内戦や暴動と無縁だなどとはゆめゆめ思わない方がいい根拠ともなっています。著者は、この状況を「パンドラの箱」と古典的に表現しています。

パンドラの白眉とも言えるのが、「第7章 内戦――真実の姿」です。この章は翻訳していて思わず戦慄が走りました。冒頭から速射砲のように、アメリカの近未来が「見てきたように」刺激的に描写されている。フィクションと気づくまでに少しページを繰らなければならない。このあたり、著者の筆力は怖いくらいに冴えわたっています。ちょっと予言的でさえある。

そこで語られる、死、憎悪、破壊の物語は、正確に言えば、単純なフィクションと割り切れないものがあります。ジョージ・オーウェルの小説が20世紀を経た今日、フィクションでなかったと判明したのと同じ意味合いにおいてです。

では、パンドラの箱が開け放たれたのはいつか。著者は2012〜2014年あたりと考えています。すなわち誰もがスマホを手にし、常時SNSにアクセスするようになった頃です。以後の状況は、浄水場を経由していない細菌まみれの生水が、美しくパッケージされて世にあまねく流通する状態に似ています。偽ともプロパガンダともつかぬ情報が、ほぼそれと知られることなく、人々の行動を呪縛してしまう。それは見方によれば、政治的イノベーションとも言えるのかもしれません。

しかし、著者は、それらが全世界を暴力の流砂に引きずり込む現実がある以上、一般のインフラ企業同様に、SNSもまた、規制を受け入れるべきと主張しています。問題はSNS企業が、固有のアルゴリズムを介して、途方もない権力を行使しているにもかかわらず、私企業であるがゆえに、ほぼ自主規制に委ねられている点です。著者はその点に激しい危機感を募らせ、警鐘を鳴らしています。

希望の物語はどこに

著者の語る世界およびアメリカの観察のほとんどは、控えめに言って心温まるものではありません。しかし、注意深く語られている希望の物語が一つあります。これはパンドラの箱の底から聞こえる「希望の声」に相当すると言ってよいでしょう。1980年代末、南アフリカのアパルトヘイト克服がそれです。ノーベル平和賞を受賞したマンデラとデクラーク2人の例をあげ、とりわけ相対的に注目されることの少ないデクラークの下した大英断に最上級の評価を与えています。

よく知られる通り、南アフリカは少数の白人が、多数の黒人を政治的に抑圧支配してきた体制でした。この構図からすれば、デクラークは抑圧を推進する権力サイドに身を置いてきたわけですから、かたやマンデラが「英雄」と称賛されるのに比して、デクラークは影が薄くならざるをえませんでした。

しかし、南アフリカを内戦の崩壊から救ったデクラークの現実主義を、マンデラにも劣ることのない傑出したリーダー像として見出しています。支配層の側から、反対勢力との協働のもとに新国家を形成する選択は、国家の破滅を避けるうえでの理想的モデルと見るわけです。実はこの南アフリカの事例は、混乱を極めるアメリカにおける一つの希望の雛形として作用していることにも気づかされます。

最終章では、民主主義の再建に伴う種々の活動が内戦を阻むために今なすべきこととして紹介されているのですが、そう聞くと、「なんだ、そんなことか」と拍子抜けするかもしれません。実際にAmazonのレヴューを見ると、それはあまりにもナイーヴだし、それができたら誰も苦労しないだろうというものも散見されます。しかし、それ以外に方法はないのだから仕方がない。私たちは白紙から世界を始めることなどできないからです。

(井坂 康志 : ものつくり大学教養教育センター教授)