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 2001年8月14日、サッカー界に激震が走った。5年ぶり3度目のチャンピオンズリーグ優勝を目指し、「トロフェオ・ベルナベウ」と銘打ったプレシーズンマッチを開催したレアル・マドリードに対して、インテル・ミラノに加入したばかりの190cmのティーンエイジャーが、およそ19メートルの距離から時速100キロを超えるフリーキックで、ベルナベウのゴールネットを突き刺してみせたのである。まさにサッカー界に新たなスターが誕生した、その瞬間であった。

 元々は恵まれた体格でディフェンダーとしてプレーしていたアドリアーノは、美しいサッカーを愛する母国ブラジルではむしろ嘲笑されていた無骨なプレースタイルによって、母国の英雄ロナウドやロマーリオらとは一線を画す形で、パルマやフィオレンティーナでゴールを量産。2004年には晴れてインテル復帰を果たし、またブラジル代表としてもコパ・アメリカ優勝でMVPに輝くなど、まさに人生の絶頂期を迎えることになる。だがそれと同時にこの夏は、アドリアーノにとって終わりの始まりでもあった。

 当時インテルで同僚だったハビエル・サネッティは、『Sports Illustrated』誌に対してこのように語っている。「あの日の夜、僕はアドリアーノの部屋にいたんだ。そしてそこで父の死を電話で聞いた瞬間、想像を絶する叫び声を彼はあげていたんだよ」それからしばらくはその悲しみをサッカーにぶつけ、プレー面で確かな上昇がみられていた。「でも、あの日の電話で全てが変わってしまったのさ。彼を鬱状態から引き離そうと、皆で試みていった。でもそれは最後までできなかったんだ」

 それからアドリアーノは浮き沈みの激しい1年を過ごし、1年後の2005年夏のコンフェデ杯では再びMVPとなって輝きを取り戻す、かに思えた。「でも父がなくなってからは、もうサッカーに対する情熱は失われていたんだ」と、アドリアーノは数年前に『The Players’ Tribune』に打ち明けている。その後は状態の低下、アルコール依存症などを経て、わずか2・3年後にはもう世界の舞台からその姿は消えていた。「家族から遠く海を隔てた場所にいて、それがもう耐えられなくなっていた。心にぽっかりと穴が開いてしまったんだ」

 そして41歳となったアドリアーノは現在母国ブラジルで暮らしており、時折その様子が写真付きでメディアによって伝えられている。ただそこには想像するような高級品や贅沢な生活の様子などが映し出されているのではなく、酒に酔いときに武器を手にした、衝撃的なアドリアーノの様子がそこにはある。「僕はスラムの子供でありつづけるんだ」とアドリアーノ。「マスコミではこの写真をみて、僕がギャングになって転落人生だ、なんて言っているね。でも僕はホームに戻りたいだけなんだ。仲間のところに帰りたい、ただそれだけ。そして僕はここでとても楽しく過ごせている」と言葉を続けた。