『ソイレントグリーン』の時代:近代文明論の帰結/純丘曜彰 教授博士
『ソイレントグリーン』は、いまからちょうど半世紀前、1973年の古典的SFサスペンス映画だ。
原作はハリー・ハリソンの『スキマを、スキマを空けろ!』(MAKE ROOM! MAKE ROOM! 、1966、未邦訳)ということになっているが、ストーリーはかなり違う。小説版は、1999年のニューヨーク、人口爆発の過密都市。水や食糧も不足し、人工肉の「ソイレント」でさえ、奪い合いの暴動に。その一方、富裕層は要塞化した住宅の中で、贅沢三昧。貧乏青年チャンは、そんな高級住宅の警報システムの修理で細工し、盗みに入ったが、オーナーのビッグマイクに気づかれ、彼を殺してしまった。だが、ビッグマイクはじつはマフィアのボスで、この事件を追う刑事アンディは、ビッグマイクの愛人、シャール・グリーンと恋仲になってしまう。。。と、まあ、ハードボイルド・テイストを高めるために、『メトロポリス』(1927)風の未来ディストピアを舞台にしているだけで、話はさしてSFっぽくはない。
ところが、これが映画版では、人工肉「ソイレントグリーン」がミステリの核心となる。舞台は、2022年のニューヨーク、超格差社会。人口爆発と環境破壊による慢性的な住宅不足と食糧不足に絶望した貧困層には、公営ホームでの安楽死が勧められる。そんな中、富裕層のサイモンソンが殺され、刑事ソーンは、その高級住宅の「家具ガール」シャールから、サイモンソンがソイレント社に関わっていたと聞くが、所長から捜査の中止を命じられ、命まで狙われるようになる。しかし、彼は、サイモンソンの部屋の資料から、ソイレントグリーンの原材料のはずのプランクトンも、すでに海洋汚染によって死滅していたことを知ってしまった。
おおよそオチが想像できてしまうだろうが、まさにそのとおりのもの。原作ということになっている小説家のハリー・ハリソンは、安っぽい勝手な改変だ、と激怒したが、とにかく映画版は当たった。人口爆発と環境破壊の最終的な解決策は、過剰な貧困層の安楽死で、当座は連中に連中を喰わせてしのぐ、という話。環境や資源の問題から20世紀的なフォーディズムが逆回転して大量生産ができなくなれば、大量の人的労働力も必要が無く、過剰な人口は社会の荷物でしかない、だから希望者はどんどん安楽死させて減らそう、という短絡的な発想。
だが、ソーンとルームシェアしている博識の老教授ソル・ロスは、ソイレントグリーンの秘密を知ると、みずから進んで静かに安楽死ホームに向かう。一方、シャール・グリーンという、若い美人女性。小説版でも、映画版でも、彼女はべつに女奴隷や高級売春婦ではなく、ただ、生まれより良い生活がしたい、というだけで、自発的に高級住宅に付属する「家具ガール」をやっている。つまり、ネコのように家に居付いているので、その住居をどんな金持ちが借りようが、気にしないらしい。そういえば、ディスニーの『シンデレラ』も、王子様に会ってみてもいないうちから、ただ、あのお城に住みたい、というのが人生の夢だった。
いま、近代文明の切換え目にあって、増え続ける高齢者の医療や介護までやりながら、20世紀的な大量生産社会のシステムを全面的に稼働させ続けようとするのは、人口減少もあって、どうやっても持続可能ではない。むしろ、環境負荷や食料供給を考えると、そもそもこれまでのような人口増大前提の労働力調達の方が異常だった。かといって、いくら強制ではないにしても、本人みずからが人生に絶望して安楽死を選択するような社会は、ろくなものではあるまい。過渡期ではあちこちに穴ができて、大きなトラブルにもなり、あれこれの「すべき論」が噴出するだろうが、へたに意固地になっていじくらず、シャール・グリーンのように無頓着な人々が流動化すれば、潰れるものは潰れ、放棄されるものは放棄され、過密過剰なものは自滅して、ほっておいておいても、現代文明は環境適正規模までスケールダウンするのではないか。もっとも、世界が再び安定するまで、あまりに多くの人が不幸になるのだろうが。