純丘曜彰 教授博士 / 大阪芸術大学

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今年は関東大震災から百年。だが、阪神淡路、東日本大震災まで、遠い昔、終わったことのように思うのは、どうなのだろう? たしかに地震は一瞬で過ぎ去る。だが、そのほんの数秒で、家は倒れ、人は死ぬ。夢は断たれ、希望は潰える。家族を失い、仕事も無くなる。納得する間もなく、人生が一変する。いや、その人生がこの世から消えてしまう。

亡くなった方は是非も無い。生き残った者は目の前の惨状に茫然自失するばかり。それでも生きていかなければならない。悲しむよりまず人を助け、手当する。夜に備え、暖を取る。闇の中に目を伏せ、明日の食の手立てを考える。すこし落ち着けば、失ったものばかりが思い出される。とはいえ、思い出して取り戻せるものでなし、探してはみるものの見つかるものでなし。文字どおりの残念が心を埋め尽くし、後悔が湧き出る。あの日より前に、こうしておけば、せめてああしていたら、と。そして、地震の後、多くの人は、生き方が変わった、と言う。ほんとうに大切なものを大切にしよう、と。

ところが、その思いもわずか数年か。荒廃した跡地は、なじみだった地域の落ち着きとは対照的に、驚くほどの速さで激変していく。その波に乗せられ、乗って、わずかのうちに我を忘れる。思い出すつらさから逃れようと、前しか見なくなる。そして、日々の憂さ晴らしに興じて明け暮れるようになる。それで、すべてはもとの黙阿弥。いずれまた、大震災が襲いかかり、どうしてああしておかなかったのかと再び後悔する。

地震に限らない。社会的な災害や疫病、戦争も、個人的な事故や傷病、犯罪や裏切も、みな突然だ。宝くじに当たる、などという僥倖は、めったに無い。悪い方にしか転がらないのが人生だ。突然に破綻する。そして、後悔し、やがて忘れる。その繰り返し。だが、いずれ人生そのものが断ち切られ、無念のまま終わる。

死を思え。キリスト教でも、仏教でも、教えの基本だ。神や仏のなにを信じようと、どのみち人はいずれなにかで死ぬ。その場に及んで後悔しても始らない。この日本にいるかぎり、かならず大震災はやってくる。いや、世界のどこにいても、人生はいつ終わるかわからない。非常用品の備えもいいが、明日、この世が崩れ、身が滅びても悔いの残らないように、できるときにやるべきことをやっておくこと。勉強も運動も、恋愛も結婚も、仕事も子育ても親孝行も。先送り後回しにしている猶予は無い。